「森田療法、発見会のサイドで生きてきた」という感覚
~父・水谷啓二の傍らで発見誌を見ながら育つ~ |
学会の当日のシンポジストは四人でしたが、自殺予防の観点に森田療法を取り入れた青森県精神保健福祉センターの渡邊(直樹)先生や、学生相談室のカウンセラーの方など、いろいろな立場の方々でした。その中で、私がなぜ発見会をとりあげたのかを、まずはじめに話しました。スライド(2)(省略)を見てください。ひとつには、発見会活動がこのテーマにぴったりで、私も協力医としてその活動に関心を持ってきていたから、ということがあります。
もうひとつ、私には大切な理由がありました。私の生き方や立場が、森田療法や生活の発見会のすぐそばで、「サイドでずっと生きてきた私」という感じがしているということです。森田療法とか生活の発見会というものが、私にとっては、とても大きな存在で、長い間その中で息づき、その中で育ってきたという感覚があるのです。そんなことも発表の中に少し織り込ませてもらいました。とてもプライベートなことなのですが、この発表をするための動機として欠かせないので、あえてあげてみました。
すなわち、「生活の発見誌を発刊し、発見会の前身の啓心会を主宰していた水谷啓二が私の父であり、その中で育った」ということです。
ここで父を引き合いに出したのは、もうひとつ理由がありました。「水谷啓二(回復者・当事者)」のサイドラインの部分を強調したかったのです。これに関しては後で詳しく話しますが。こういう人が親であったことが、あるときはとても迷惑だと思ったこともありますが、今は、大きな宝物を父からもらったことに大変感謝しています。私の体験も交えながら、発見会・発見誌の草創期のお話しを少ししてみたいと思います。
みなさんご承知の「生活の発見」誌は一九五七年(昭和32年)に創刊され、現在すでに通算五五〇号を超えており、今なお毎月、充実した内容で出されているわけで、この功績は大変なものだと思っています。「生活の発見」誌はその昔、父が主となって発行し、長谷川先生も支援してくださっていました。父がやっていた頃、発見誌が出来上がってくると、私の家は大騒動となりました。入寮生と家族総動員で宛名書きや袋詰めをしたり、郵便局までリヤカーで運んだり、そんな手伝いを子ども時代にやっておりました。父から文章を書けとか言われて、いやいやながら時々書いたこともありました。
当時父は、発見誌の発行と同時に、今の集談会につながるような集いを、豊島園の自宅で月に一回、「啓心会」という名前で行っていました。その発足が一九五六年(昭和31年)で、私は中学生の思春期真っ只中でした。その後、高校、大学時代を通して、啓心会の末席に座らされたり、座布団やお茶運びをしたりしながら、ずっと傍らで見聞きしながら育ってきました。父の話もさることながら、体験を話されるみなさんのお話が興味深かったのを記憶しています。森田療法漬けの思春期・青年期でした。
その父が、1970年(昭和45年)に突然亡くなり、そこから長谷川先生が孤軍奮闘なさって、現在の発見会を立ち上げられたのです。もちろん、長谷川先生だけではなくて、みなさんが力を合わせ、大変なご苦労をなさって、現在の発見会の礎をつくられたわけです。父がやっていたのとは内容的には少々違いますが、基本的な理念を引き継いで発展させ、全国に広げていただいたことに、私は深く感謝しております。
こんな経緯から私は、生活の発見会にはもっともっと関わり、活動をご援助しなくてはいけなかったのですけれども、以前に発見誌に書いたことがありますので事情をご存じの方もあると思いますが、親に造反し、ついでに森田療法にも造反して飛び出してしまったのです。そういうことで、私自身はこれまで一度も発見会の中からは担ってこなかったのですが、いつもどこかで何だか自分の家族というか、他人事に思えない、すぐそばに在るという感覚・想いがずっとしてきているのです。
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