「純な心」と「素直な心」
これは、「純な心」と似て非なるものでありますが、お役に立とうかと思いますので、「純な心」をよりよく理解していただく一つの資料にできたらと思います。松下先生は、この「素直な心」というものを1976年、24年前に書かれた本で、当時の世相を批判して次のように述べています。
――戦後、物資が豊かになることを一つの大きな念願として、その実現のために並々ならぬ努力を続けてきたが、-(中略)- 今日、この物の豊かさに比べて、精神的な心の豊かさが足りないのではないか。たとえば、お互いが自己の利害や立場にとらわれて、自己中心的な考えや行動に走りがちである。また他の人々の存在を無視してふるまったり、罪を犯してもケロリとしているとかいったように、社会の各方面において心の貧困、荒廃の姿が見られる。――
これは24年前のことです。いまだ、それが進行しているように思う昨今ですが、その大きな理由のひとつとして、――お互いの人間が、「素直な心」というものを見失っているためではないか――というふうに結んでいます。
それから松下先生は、この「素直な心」が出にくい理由として、「とらわれが生じやすい」ことをあげておられました。その原因として、旧約聖書に見ます『禁断の木の実の話』を例にあげています。人間に「理性」が備わったために、本来備わっている「素直な心」が、諸々の知識や知恵によって覆い隠されてしまう、それが原因で現在の不幸な姿があるのではないか、という分析をしています。
松下先生の「とらわれ」とか「素直な心」と、森田先生のいわれる「とらわれ」と「純な心」というのは非常によく似ています。松下先生は、「理性や自己中心的な欲が、『素直な心』を曇らせて、人と人との間に不要な争いを引き起こさせ、お互いに住みにくい世の中にしている」と諭しています。森田先生は、「かたくなで主観的な考えにとらわれるために『純な心』が覆い隠されて、自己中心的な『悪智』が働き、自分自身を世の中に住みにくくしてしまっている」といいます。
そこで、松下幸之助先生が言われる「素直な心」があると、どういうよいことがあるかということを10項目あげているので、それを森田と対比させながら簡単に説明させていただきます。
1 「素直な心」が働いたとき、なすべきことを正しく知り、それを勇気をもって行う姿が生まれる。
森田で言いますと、「目的本位」と「勇気と自信の奪還」にあたるかと思います。
2 「素直な心」になれば、すべてに順応できるので、何でも自分の思い通りになる。
これは「境遇に柔順である」という言葉と対をなすのではないかと思います。」
3 「素直な心」になれば、何事に対してもこだわりやわだかまりが心に残らない。
これは「思想の矛盾が起こらない」というのとよく似ています。
4 「素直な心」になれば、現状にとらわれることなく、日に新たなものを生み出していくことができる。
これは森田先生がよく言われる、「日に新たに、また、日々に新たなり」ということとよく似ているように思います。
5 「素直な心」になれば、危機に直面してもこれをチャンスと受けとめ、災いを転じて福となすことができる。
これは、先ほども述べましたが、「死の恐怖」にとらわれるのではなく、「生の欲望」にしたがって行動すればこういうことが起こり得る。森田先生は、正岡子規の話を入れて説明されて、「運命を切り開く」という言葉を使っておられます。
6 「素直な心」になれば、自分の立場をわきまえて、常に慎むという見識も生まれる。
これは森田でいいますと、「物事の実相を見ることができる」ということに当たるかと思われます。
7 「素直な心」になれば、いらざる対立や争いが起こりにくくなる。
森田先生が「感情の法則」のところで話されている、高知の格言を出させていただきますが、『男は、腹が立てば三日考えて、然るのち断行せよ』。三日間我慢して考える。それでも腹が立つことがあればそれをしなさい、と。「純な心」、「感情の法則」にしたがった考えです。
8 お互いが「素直な心」になったら、何が正しいか正しくないかという区別がはっきりし、共同生活の秩序が高まる。
森田療法でいきますと、「事実唯真、ものをよく見つめる、価値観の没却、そうすることによって差別ではなく区別ができる」と言っております。
9 お互いが「素直な心」になれば、一人一人が自分の持ち味を充分に発揮でき、適材適所の実現が進められる。
これは、森田では「物の性を尽くす」という言葉でよく説明をされております。
10 「素直な心」になれば、病気になりにくくなり、たとえなったとしても比較的治りやすくなる。
これは伊丹先生が言っておられるように、「生きがい療法」のなかで実行しておられることでもあるわけです。 このように、森田先生のいわれる「純な心」と、松下先生の言っておられる「素直な心」というのは、非常によく似ているということはおわかりいただけると思います。森田先生は「人間個人の心の中の葛藤、悩みの処理」を問題にされましたが、松下先生は、「世の中、人と人との間の交わりの中での悩み、抗争、争いごとをどう処理したらよいか」ということをおっしゃっている。「一個人の、心の世界のなかの問題」として見るか、「世界の、人間人類の生きている中での問題」として見るか、それが「純な心」と「素直な心」との違いであろうかと思いますが、基本は同じではないかと思います。松下先生は、そういう「素直な心」はどうしたら得られるだろうかということは述べておられません。しかし、「『素直な心』を皆さんが持てば、世の中は素晴らしくなる。今のような抗争の社会でなくてすむ」とおっしゃっています。森田先生は、「あなたの心の中での悩みや苦しみは、『純な心』を得る方法が得られたら、そういう心配はなくなる」と言っておられます。お二人の考えは、「個人の問題」か「世の中の問題」か、その違いはありますが、多分これは最終的な、基本的なところでは、相通じるものがあるのだと私は思っています。

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