純な心の体得とは
それからもうひとつ、「『純な心』の体得」でありますが、森田博士は「これが最後の、最終の全体を含めた目標である」とお考えになっています。しかし、その「純な心」というのは、どんなものかといいますと、非常につかみにくい。「自分をあざむかない本然の感情であって、禅でいう『初一念』で、最初に感じたもの、一つの感情、ことばにならないものである」と森田博士は言っています。例をあげて、こんなことを言っておられます。
ウサギの世話を任されている人がいた。あるとき、野良犬が来て、飼っていたウサギをかみ殺した。そのとき起こる気持は、野良犬に対して「にくらしい」。ウサギに対しては「かわいそう」と思う。森田博士は「これが『初一念』である。これが純な心である。しかし、その先二念、三念と次々と考えが起こると問題が起こる」と言っておられます。
野良犬が人目をかすめて入ってきて、ウサギをかみ殺した。野良犬をにくらしいと思うわけです。自分が悪いのではなく、野良犬が悪いのであって、世話をしていて、自分が責任をとらされるのはまっぴらだ。……こう思うのを森田博士は「悪智」と言っておられる。これも禅のことばのようですが、そうおっしゃっています。
それでは「純な心」とは何かといいますと、森田博士が言われるのは、仕事の目的であった「飼っているウサギに対する思い」が大切です。「かわいそうなことをした」と思う心から出発すると、注意をして世話をしていたにもかかわらず、ウサギを死なせた。どうしてそんなことになったのか。自分がこれだけ一生懸命やっていたのにできなかった。ほかの人に任せられない。二度とそういうことが起こらないようにしようと、創意工夫をすることになる。……それが「純なこころ」である。
なかなか微妙なところでむずかしいのですが、結論的に言いますと、いろいろな問題に直面してそこから逃げるのは、これは「悪智」からである。何を、どう考えたかを別にして、それから逃げずに受けとめて、事実を見てそれに対応する。創意工夫をして、それを改善する、という思いがあるときには、それは「純な心」でやっている、と理解されるといいのではないかと思います。「ほとんど紙一重で変わってしまう」と森田博士は言っています。
また、「そこが『悪智』と『純な心』の違いである。『純な心』から出発すると、『失敗は成功のもと』ということわざが生きてくる。『失敗は失敗だ』と思うか、『失敗することによってそれは成功を導くのだ』と思うか、その分かれ道は『純な心を持っていたか』失敗したときに『純な心で対応したかどうか』である」と、森田博士は言っています。
これはどういうことかといいますと、勇気と自信のある「自尊心」だけでなく、「自己実現」、すなわち自分のやってみたいこと、自分の能力の限界を乗り越える「場」が与えられるし、それを達成できることを教えてくれているのです。「純な心」というのは、「自己実現達成の原動力」でもある、そういうふうに理解されるわけです。

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