こうして症状から解放された(論文)
| 行動が性格を変える(1) /長谷川 洋三 (前・生活の発見会会長) |
| 行動とは何か まずはじめに、行動とは何か、ということを考えてみましょう。 私は、ときどき近くの公園を散歩します。幼稚園の子どもたちが先生に引率されてやってきます。先日通りかかりましたら、子どもたちが五、六人かたまっています。近づくと、「あ、動いた、生きている!」「ほんと、生きている!」とさわいでいるんです。小枝や落葉で毛虫のようなものにこわごわふれて、ぴくっと動くたびに、歓声をあげているのです。子どもたちは、動くか動かないかで、生きているか死んでいるかを判断しているのです。これは、たいへん大事なことだと思います。 動く、運動ということのないいのち(・・・)は考えられないですね。しかし、運動そのものは、いのち(・・・)ではない。いのちにともなう現象、生命現象というものでしょうが、この生命現象によって私たちはいのちを考えていきます。 ところで、いま私たちがここでとりあげている行動は、生命現象である運動とどう違うのでしょうか。 私たちが行動という場合、なにかそこに意志が働いているのではないでしょうか。 行動するということは、私たちがそれぞれおかれた環境のもとで、ある目的を達成するために、いろいろな条件を考え、選択をし、適当と判断した行動をとっていくことです。昆虫などが外界からの刺激に反応して反射運動をするのとは、だいぶ違います。 人間の行動も内外からの刺激に対する運動には違いありませんが、人間の行動には、判断とか意志とかいう精神的な要素が大きくものをいっています。この精神的要素は、人によって、また年齢によって、環境によって違ってきます。 私たちが神経質症に悩んでいるときの、ものの見方・考え方と、森田理論を学習してからのそれとは違います。ものの見方・考え方が違えば、外界から、あるいは内界からの刺激に対する対応も違ってきます。 対人恐怖の人は、人前で緊張する、赤面する、あるいは視線が気になるというようなことを、自分だけにある異常なことと思いこみ、耐えがたい恥辱であり、劣等性であると信じこんで、なんとかして緊張すまい、赤面すまいとムダな努力をします。さらにそういう努力を人に知られないために、虚勢をはったり、逃げたりしています。ところが森田理論の学習によって、対人恐怖や赤面や、視線のやり場に困るといったことは、時と場合によって誰にでもあることで、それが人間の自然の性情―人間性であることを自覚し、虚勢をはったり、逃げたりしないで、恥ずかしいままに対応するようになります。 要するに、私たちの行動には、私たちのものの見方・考え方、判断、意志という重要な精神活動があるということ、その見方・考え方に誤りがあり、選択に誤りがあると、環境に正しく適応できない、ということになります。
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