あきらめは、はじまり – T・K氏

不安神経症の辛い状態に陥って、一人ではどうしようもなかった。自分の力だけではどうにもならなかった。森田療法に出会ってから今月(平成27年2月)で丸2年が経ち、多数の方々の援助をいただき、困難を乗り越えることができました。それらを想い起こし懐かしむような心境にはまだないけれど、その間に体験し感じたことを正直に書いてみたいと思います。

第1の援助 夫
平成25年の終わりの12月の半ばに、知っている人もいない見知らぬ土地に引っ越しをしました。子供のいない気軽さと、夫婦ともに自己実現をしたい強い欲求を持っていたため、年齢を考え(夫39歳、私49歳)最後のチャレンジという気概がありました。
私は10年前、パニック発作を伴う不安神経症の恐怖症という診断を受け、公共の乗り物や閉ざされた空間での恐怖感を、薬物療法で乗り越えていました。 今回の引っ越しを機に再び不安発作が顔を出し、時と場所を選ばずに、居ても立ってもいられない強烈な違和感や逃げ出したい恐怖が迫ってきて、せっぱつまった感覚にたびたび襲われるようになりました。非常に困りました。自分に何が起きているのか、何をどう考えてよいのかわかりませんでした。
完全に薬を切るまで7年もかかった経験から、再び精神科を探して薬物療法を始めることはためらわれました。とらわれから離れることができずに、テ レビを見ても美しい空の映像から高所の恐怖を、神秘的な海の映像から水中の息苦しさを、室内の映像は閉所恐怖を、乗り物はパニック発作の恐怖を連想し、ラジオから流れる音楽によって心が動くことが、食事をして胃腸が動くことが、鏡はおろか自分の指先を見ても何かにつけて恐怖に結びついてしまい、まだまだ我慢できると思っていたのに、心の隙間が徐々に埋まってゆくようでした。
自分の心や身体の状態のささいな変化を見ることにものすごくエネルギーを注ぎ続け、おびえることしかできませんでした。しかし一方、ふるえながらも家事をして身なりをととのえ、睡眠の質は悪く度々目覚めても、毎日眠れてはいました。出かけるときは夫に頼り、その時だけ薬を飲み面接を受けたりもしていました。 2月の半ば、夫がインターネットで森田療法と集談会を調べ、私に勧めてくれました。夫は知っていたようですが、私は初めて耳にする言葉でした。森田先生との出会いにつなげてくれたことを、私は一生夫に感謝します。

第2の援助 集談会の先輩方々
夫の車で送迎してもらい、初心者懇談会におそるおそる参加しました。治りたい一心で、ふうふうと肩で息をしながら出口に一番近い席についた私のその時の本心は、「ああ、ついにこんな所まで来てしまった」という差別的で傲慢なものでした。世話人の方々や幹事の方が、代わる代わる声をかけて下さり、話を聞いて下さって、「よく解りますよ。大丈夫、治ります」と笑顔で言ってくれました。その時手渡された「森田理論学習の要点」の内容と、話された講義に深く納得しました。
「神経症の成り立ち」は、自分のこれまでの人生を言われているかのようでした。表面上、明るく楽観的に生きてきた反面、決して取れない重りのような死の恐怖や空虚感、永遠に対する観念的な恐ろしいものなど、解決したいけれどできないので感じないように蓋をして閉じ込めていたものに、初めて光が当てられたと感じました。
得体の知れないオバケのような存在だった神経症というものが、自分の頭で考えること、自分の語彙で対応できたという安心感から、帰り道は症状もなくなり待っていてくれた夫の車で、久しぶりに楽しい心地を味わいました。
その後10日間ほど何事もなかったので、神経症になる以前に戻ったかと思ったくらいです。1ヶ月後を待てずに、いくつかの集談会に参加しました。とにかく早く治りたくて、症状をとりたくて必死でした。ただ、森田療法ではなく森田哲学でやっていきます、何でも言うことを聞きます、という受け身的な対応でした。読書は好きでしたが、単なる読書にならぬよう森田療法の書籍3冊程度をゆっくり何度も読みました。
仕事の方は、当初のチャレンジはひとまず脇に置き、経験のある仕事を2~3時間から 始めました。3カ月程で症状の出る間隔が長くなり、「治 ったか」と錯覚をする、それくらい勉強をしても、まだまだ神経症のからくりも、治るということも全く解っていませんでした。集談会で「治った」と言うと、喜んで下さる方と、その後が想像できたのでしょう、ともかく見守って下さる方とがいらっしゃいました。

第3の援助 森田療法実践医のドクター
6 月の終わりから 7 月の終わりまで、症状と予期不安にとらわれ続け、再び、はがれなくなりました。気持ちだけではなく、自律神経の乱れから消化不良は毎日で、通勤途中でもトイレに駆け込むことがあり、仕事中会話をしながらも発作に苦しみ、冷や汗と心悸亢進に耐え続けました。運転中も呼吸にとらわれ、吸って、吐いて、と意識 しながら呼吸困難感にも苦しみました。
「 もう 1日、もう 1日」、「以前は 3日で収まった。5日かかった」とか、指折数えて、「あと半日」、「夜になったら」、「朝が来たら」、「あと1 時 間だけ」… と、そんな毎日を送り、3週間たったところで今回はもう限界だと思いました。仕事を辞めるか医者に行くしかないと思い、どこかが完全に停止してしまい、自分で自分に指令が出せなくなる前にと医者に行き、話をして薬を出してもらい飲みました。
集談会でも相談すると、「薬は杖と思い、杖をついてでも前へ。今はそういう時期」とアドバイスしていただきました。森田療法の指導医であるドクターは笑っていました。 「先生、おかしいですか?」と、私もおもわず笑ってしました。薬を3カ月飲み、半年間通院しました。森田の勉強で軽快に向かったのちの大きな揺り戻しの落ち込みを5ヶ月経験したのち、日記指導により救っていただきました。
ここまでの体験で、「人間はこんなに危機的状態になることもあるのだ」、ということを思いしらされました。私は相談できる集談会という場があり、また日記指導の中で、赤ペンで短く「よし」と肯定して下さったドクターに出会えて、本当にラッキーでした。と同時に、この頃から「もう治らないんだ」と思い始めもしました。なかなか受容まではいかず、残念な悲しい気持ちで一杯でした。
それから先を一言でいえば、耐えに耐えた1年間でした。森田の勉強をし、フルタイムで仕事をし、家事をし、ヘトヘトになりながらも他にどうしようもなく、文字通り歯を食いしばって日常生活を続けました。森田に対する期待が大きすぎたのかとも思いましたが、一方、辛い時に自分で乗り越える力を身につけたい、症状だけを目の敵にするのではなく、物事を全体でとらえ日々無事に過ごす方が大事、自分の人生をもっと真剣に考えようなど、本当に当たり前のことを感じ、思いました。
通勤時ハンドルを持つ手が震えても、全身が緊張して昼食がとれなくても、1時間も耐えられないと思っても、何とかこらえて夕方まで仕事をし、帰りの車中で何度も涙を流しました。よろよろと腰をかがめ、自宅の玄関に入ると座り込み、両手で顔を覆い、声をあげて泣きました。日曜日の集談会や初心者懇談会が拠り所でした。「症状を治すことをやめよ」と言われても、「自分も自然の一部であり、あるがままでいるしかない」と言われても、頭での理解を越える日はなかなか訪れませんでした。
3月で医者通いも卒業しました。毎日フルタイムで働き、家事をし、時に外食をすることもできるのだから、自分でもそろそろ卒業だろうなと解っていました。 「日常の一瞬一瞬を大事に生きてゆけば、おのずと道は開けます。心は、いずれ勝手に回復していきます。焦ることはないよ」と、ドクターは相変わらず笑っていました。私も心細くうなずき小さく笑いました。通院時、数回地下鉄やバスに乗り、「あまりに怖くて薬を飲むのを忘れました」と報告している自分は、さすがに本気でおかしかったです。

第4の援助 基準型学習会で指導していただいた先生方と仲間の皆さま
何をしていても日々は過ぎてゆくのですね。冬を越し、春を迎え、夏のさ中の頃には、変わらぬ不安感を持ちながらも、時に自然に笑っている自分を静かに感じることもできるようになってきました。治りたくて、治りたくて、 治りたくて、もうこれで、もうこれでと思っても治らなくて、治らない変わらない自分とずっと戦っているうちに、「あきらめ」 が熟成していったようです。
初心者懇談会で世話人としてもお手伝いさせていただく中で、こんな状態の自分でも他者支援ができるかも、またしてみたいという欲望を感じ、改めて欲望は元気の源であり不安とセットなのだと思いました。一昨年は中止になった「基準型学習会」に、9月から参加しました。忙しい毎日で 睡眠時間を削って理論学習をし、森田の本を読み、生活日記と学習日記を書きました。
私の場合は学習日記が効いたようで、解っていたつもりの理論が毎日の勉強によって身体に入ってきました。表面は変わっていなくても、内側で少しずつ変化していったのだと思います。嫌な気持ちを嫌なまま受け止めている自分。不安感に背を向けず向かい合ってみる自分。そんな単純な事が、変わらぬ日常生活の中でチラチラと見え始め、恐れに対する恐れが減りました。
次から次へと必要なことは訪れ、2年ぶりに高速道路にも乗り、県外に出かけました。自分から心悸亢進しよう、不安になろうと踏ん張っても症状は出ませんでした。すっきりした訳では決してありません。学習会も3分の2が過ぎると、症状は時に出て嫌だけれど、このまま生活を続けていけそうだと思いました。
基準型学習会は、私にとって大きな転機となりました。神経質を発揮して、欲望に沿い真面目に粘り強く学びました。これというきっかけがあったわけではないのですが、その時々のさまざまな感情をそのまま受け入れられるようになってきました。
そしてホッとしたのも束の間、次の課題(親の介護)が突如やってきて、紆余曲折 、二転三転あり、再び引越しをすることになります。遠く離れた場所にいて、山積する介護手続きやら何やらを、日常生活も学習会も手放さずに1ヶ月で順次こなしたことは、自分ながらあっぱれでした。ここでも 、神経質の良いところを発揮できたようです。
そして2年前と同様再び仕事を辞め、平成 27年1月終わりに、実家とはいえ暮したことのない新しい土地に引っ越しをしてきました。 森田を学んだおかげで、新たなチャレンジに臨むことができます。不安や恐れはあり、時にきつい症状もあるけれど、それはそれで流れていっています。 あきらめは、陶冶の始まりでもあるようです。

第5の援助 友人たちと職場の皆さま
友だちや職場の仲間の人たちは、いつも変わらず気にかけ励ましてくれ、治ることを信じ続けてくれました。ありがたいことです。常に常に。
最後に、森田を学び始めて2年。能力はなく、まだ小学生程度だと自分では思っています。だからこそ、これから学びを深めていくことは、生き甲斐につながります。価値観の変わりはじめたこれからの人生が楽しみです。今回は体験したことを書こうとしたのですが、結局気持ちの変遷に終始してしまいました。あえて過去を探ることはせず、不安や恐怖の原因探しはやめしました。2年間の“今”の羅列です。名古屋でお世話になった皆々様には、言葉では言いつくせないほど感謝しています。私の魂を救っていただき、ありがとうございました。

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