エッセイ 森田博士の思い出 

河原 宗次郎(森田入院療法体験者、額縁商・神田「草土舎」創業者、1901~2002)



このエッセイは、森田療法創始者・森田正馬博士の入院療法を受けた額縁商・河原宗次郎氏が治療を受けた当時のことを書かれたものです。森田博士の治療の実際がどういうものだったか知るための貴重な歴史的資料と思い、ここに掲載いたします。時代背景、は現代と大幅に異なりますが、史料としてご参考になさってください。


厳しいなかにも優しさが
 森田正馬博士(森田療法の創始者・慈恵会医科大学初代精神科教授)は、非常に厳しい、こわい人でした。しかし、そのなかにも優しさ、親しさ、気配りのある、そういう人でした。私たち入院患者は、高い入院料を払って入院し、神経質症を治したい一心でしたから、先生に近寄りたい、そしてお話を聞きたい、しかし、恐ろしくて近寄りがたい、そんな雰囲気のあるかたでした。
 森田先生は肺結核を患っており、床に伏していることが多かったことも、一層、近寄りがたくしていたのかもしれません。
 先生は、体が弱かったにもかかわらず、患者の皆さんのため、長時間話をしたり、時には実地に指導され、オーバーな表現になりますが、命がけで患者に尽くしていたといってもいいと思います。昔の肺結核は今のガンより恐ろしい病気とされ、ご自分の命がわかっていただけに、限られた時間のなかで全力を出しつくしたのではないかと思います。
 私が神経衰弱で森田先生の病院に入院したのは、昭和八年四月のことでした。私が先生に最初にお目にかかったとき、先生は千里眼をお持ちのようなかたでしたから、即座に私の性格を見抜いたのではないかと思います。
 まず、私の服装がいけませんでした。私はそのころ、満州の行商から帰った直後でしたから、多少見栄もあったのでしょう。縞のズボンに黒の上着を着て旅行へでも行くような「ぶった」格好をしていたからです。
 一方、先生の服装といえば、ヨレヨレの和服の着流しで、風采の上がらない田舎のおじいさんという格好をしていました。体も小柄で、はっきりいうとちっとも立派でない、「これが森田先生かいな」というのが先生と会った第一印象でした。先生とは対照的な服装をしていた私を見て、先生はピンときたのではなかったでしょうか。
 面接時間はわずか三十分足らず、診察料は確か八円でした。当時の八円は今でいえば八万円以上に相当する大金でした。風采のあがらない先生のわずか三十分足らずの診察で大金を払った私は、何か割り切れない気持ちで帰途につきました。しかし、当時の私にとっては、ここしかくるところがなかったのですから、しかたがないという気持ちも一方にあったことも事実です。
 森田先生との面接で、根岸病院の佐藤(政治)先生を紹介されました。そして佐藤先生から指導を受けたのですが、先生の話を聞いたときは気分がよくなる。治ったような気になる。ところが帰宅の途中で、また元に戻ってしまって病院に戻りたい気分になります。
このようなことを何日か繰り返しているうち、再度、森田先生を訪ねることにしました。しかし、今度は森田先生は診察してくれない。森田先生の弟子の野村(章恒)先生を通じて、佐藤先生への通院を続けるように、と言ってきました。やむを得ず再び佐藤先生のところへいく。いった当座は気分はいいが、また、元に戻ってしまい、森田先生を訪ねる。
 森田先生には三回頭を下げて、泣くようにして入院を懇請しました。当時の入院料は一日4円という高額でしたので、貧乏だった私にもなみなみならぬ決意があってのことでした。そして、私の願いがかなってやっと入院が許可されたのです。
 今考えると、森田先生は私の性格を見抜くと同時に、「ぶった」「虚勢をはった」態度をたたき直すために、私の入院要請をあえてはねつけたのではないかと思います。どこへもいくところがないように持っていって、つまり、そこまで私を追いつめてくれたのではないかと思います。今ではそれを温情として受けとめていますが、悩み苦しんでいた当時の私には、それを受けとめる余裕がなかったことはいうまでもありません。


神経質でよかったと森田先生に感謝
病院では一週間の臥褥から始まり、軽作業などの作務が続きました。作務は庭が広いのでいろいろありました。作務中は朋輩との話は禁止されていました。四十日間、私は森田先生の厳しいご指導を受けたわけです。
 その間、女房は一週間に一回、入院費を持って病院にやってきました。女房のサイフの中身は私が一番知っていたので、気の毒でした。しかし、症状は一向にはっきりしない、早くいえば治っていないわけです。自分のフトコロと女房の苦労を考えて、私は四十日たったところで先生に「帰らせてもらえないか」と申し出ました。厳しい先生のことだから、私がひとたびこの病院を出たら二度とご指導を受けられないと覚悟をしたうえで、先生にお別れを申し上げにいったのです。ところが先生は「うん、帰るか。悪くなったらまたこいな」と私にとっては入院して初めてとも思える温かいことばをかけてくださいました。私は絶体絶命だと思っていたので「またこい」と言われるとは思っていなかったからです。こうして私は喜び勇んで自宅に戻りました。
 自宅には戻ったものの、症状のほうは依然としてはっきりしない、苦しくてしょうがない。私自身には治ったという実感がないのです。ところが女房や店のものたちが「人相がよくなった」とか「肥って健康そうになった」と言ってくれたのです。四十日間の先生のご指導で、客観的に何か変ったところがあったのだと思います。
 退院後、一週間ほどして、私が私の店の店頭に立って働いていたら、先生が突然店に入ってきました。先生は私を見るなり「元気そうだな」とひとこといい残してそのまま帰ってしまいました。当時の私には、先生の言動の意味がよくわかりませんでしたが、今になって思えば、それほど私を心にとめてくださり、見守っていてくださった先生のお人柄がしのばれるのです。森田先生のご指導で、私はその後立ち直り、以後精神的にも幸せな生活を続けています。今でも毎朝、森田先生の胸像に向って手を合わせています。
 悩みを深めていたときは、私の細かい神経を悪いものと思っていましたが、今では細かい神経を持って生まれてよかったと思っています。細かい神経がマイナスに作用するとやっかいになりますが、細かい神経を持っていたからこそ、女房や家族、店の人や地域の人に細かい気配りができたのだと思います。それを森田先生に教えていただいたのです。気配りとは人にグチや悪口を言わないことです。人間は感情の動物ですから、面白くないことやいやなことはたくさんあります。しかし、それを口に出してしまったら終わりです。口に出さなければ消えてしまいます。このような気配りができるのも神経質のありがたいところです。



「お使い根性」をきらう
私が入院したのは若葉の季節でした。病院の庭は広いので、庭掃除も多くの作務のうちのひとつでした。ある日、私が庭掃除をしているとき、先生から名前を呼ばれました。先生から声をかけられることは、入院している者にとって何よりもうれしいことでした。それは治そう、治してもらおうという目的があって入院していたからです。
 先生は和服を着て、縁側で籐イスに座っていました。そして、私に近くにあった植木鉢をどけてくれと命じたのです。私は「ハイ」と返事をして、他の場所に鉢を移しました。ところが先生は「そこはいかん」とおっしゃったので、また他の場所に置きかえました。また「そこはいかん」と言われた。そんなやりとりをしているうち、どこへ置いていいのやらわからなくなり、鉢を持ったままうろうろしているうち、先生は奥へさっさといってしまわれた。先生が「どこそこへ置け」といわれれば、その通りにするのですが、おっしゃらない。鉢をかかえたまま、立ちん坊を余儀なくされたわけです。
 今でこそ、私に対する先生のご指導であったことはわかるのですが、そのときはキツネにつままれたような気持ちでした。鉢をそこへ置けといわれたら置く、鉢をあそこへ置けといわれたら置く、先生はこれを「お使い根性」といって嫌いました。
 人から言われたことだけをやるのならば、子どもにもできる。思慮分別のつく人ならば、先生の方から見て、その鉢をどこへ置くのが一番いいのかを考えて置くはずです。たとえ、その鉢を置いた場所が先生が気に入らないとしても、よく自分で考えてのことでしたら、先生は何もおっしゃらなかったと思います。先生の方から答えを出さないで、患者に答えを出させるやり方は心にくいばかりです。禅でいう公案だと思います。森田先生のデリケートなご指導の仕方を今になって垣間見る思いがします。
 これも私が庭掃除をしているときでした。そのころの私は、古手の中に入っていましたが、新しく入院した人たちが先生の講話を聴いていました。私も勉強して早く治したいという意欲がありましたから、どうしても聴講したい。そこで、私は障子を開けて聴いてしまったのです。ところが、私は先生に大変叱られました。先生の話を聴いて、一日も早く治そうと努力している自分が、叱られた、当時の私にはその意味がわかりませんでした。
 森田先生のところでは、日常の生活を重視し、患者にいろいろな仕事を与えていました。庭を掃除する、畑を耕す、庭木のせん定をする、ごみを埋める、穴を掘る、新聞紙をもむなど、各種の作務が治療法の一つであったからです。
 したがって、先生の話を聞くだけが勉強ではなく、日常の作務も重要な勉強であったわけです。「森田のところへいくと高い入院料をとったうえ、入院患者を召使いのように使って、森田とはいったい何者だ」と悪口をいう人もあったほどです。



物の性を尽くす
森田先生は無駄なことはいっさいしない人でした。人を叱るにも、その叱ることが、叱られた人にとって役に立つかどうかを考えて叱っていたようです。
 飯をたくことも重要な作務の一つでした。三人一組で炊事当番がまわってきたように記憶していますが、早くから作業にはとりかかれませんでした。決められた時間内に炊事をすべて完了するようにという合理的な考えからでしょうし、また公案のひとつでもあったでしょう。薪はいっさい使わず、古新聞と落葉を燃料としました。いずれも燃えにくいもので、工夫して上手に燃やさないとご飯はたけません。
 晴天の日と雨天の日の炊く米の量も変えていました。晴天の日は戸外の作務が多いから、米の量を多く、雨天の日は室内の作務が中心ですから減らすという具合でした。
 お茶のためのお湯をわかすのも合理的でした。火鉢の真中には大きなヤカンをひとつ置き、そのまわりに小さなヤカンをいくつか置いて、人数に応じて小さなヤカンを加減していました。昔、田舎などで使った熱を逃さないように紙でつくった覆いも使っていました。
私が階段の拭き掃除をしていた時のことです。ほうきを無造作に立てかけておいたところ、先生の奥さまは、ほうきの穂の方を上に向けて、立てかけ直されました。ほうきは穂の方を下に向けて置くとその重みで穂が曲がったり、いたんだりしますから、当然のことです。奥さまからもいろいろご指導をいただきました。
 夜なべに新聞もみもやりました。古新聞を適当な大きさに切って手でもんでやわらかくし、それをトイレット・ペーパーとして使うのです。破らないように、やわらかくなるまでもむには、工夫と注意が必要です。そういえば、朝洗顔するとき、ハミガキ粉はいっさい使いませんでした。せいぜい塩を使うくらいでした。
 先生は教材としてうさぎやにわとりを飼育していました。近くに青物市場があり、エサの野菜くずを拾いにいかされました。野菜くずのなかに、人間が食べられそうなものがあると、それが食卓にのぼることもありました。
 先生は私たちをお供にして、自動車でよく出かけられました。そのとき先生は必ず「自動車に乗るときは足を前にふんばって、体を座席の後ろにくっつけて乗りなさい。車が衝突してもケガを防げるから」といっていました。今のシート・ベルトを着用する心がけとまったく同じことをいっていたわけです。
 先生は散歩するときも私たちをつれて歩きました。そして実地指導をしました。先生のやることにはまったく無駄がありませんでした。物の性をつくすことを実生活を通じて教えたのです。



デリケートな神経の持主
私たちは入院中、先生から日記指導をしていただきました。その日記に先生は赤字を入れてくれます。それを見ていると、先生は私たちを見ていないようで実によく見てくださっていることがわかりました。先生自身が神経質症であったからこそ、それができたのであろうと思います。
 ある日、私はノコギリの目立てをしたことを日記に書きました。先生は赤字で、「ノコギリの目立てはしてはいけない」と書いて戻してくれました。あくる日、その赤字の箇所が消されているのに気がつきました。
 ノコギリの目立てはむずかしく、素人がこれをやるとノコギリを駄目にしてしまう。そこで、先生は素人がむずかしいことをするものではない、注意をしてくれたのです。しかし、私は額縁屋であり、ノコギリを使ういわば専門家です。そのことを先生は思い出して、日記の赤字を消したのだろうと思います。
 ことほどさように、先生は細かいところに気のつくかたでした。その人の素質、性格、養育環境、職業などを熟知したうえで、指導していたのです。デリケートで細かい神経の持主であったから、森田理論をうちたてられたのではないかと思います。


形外会について
形外とは先生の雅号で、それをとって形外会としたとのことです。この会は先生から教えを受けた人たちが結成したもので、一ヶ月に一回集まり、先生からご講話やご指導を受けたりしたものでした。
 会長は香取さん、倉田百三さん(作家、1891~1943)も顔を見せていました。水谷(啓二)さんは東大の学生で、先生のところへ寄宿し、先生のご指導を受けながら通学していました。山野井(房一郎)さんは幹事をしていたように記憶しています。
 水谷さんは私の先輩でしたから、あるとき、水谷さんに、私らしい字を書いてくれと所望したところ「誠」という一字をいただきました。私はそれを板に彫ったりしました。水谷さんは、その後、私をモデルにした『草土記』(「人生晴れたり曇ったり」というタイトルで春萠社から再版)を書き、それがベストセラーになるなど、おつきあいを深めていくことになります。
 私は森田先生を通じて、高良(武久)先生、高良先生の奥様である高良とみさん(元参議院議員)、鈴木知準先生など、数多くのかたがたと面識を持つことができました。私は神経質の性格をもって生まれ、とても幸せだったと思います。

1988年11月13日、生活の発見会目黒集談会での講話

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