経験によって「不安」を克服(不安神経質症・不安発作) / O.G(31歳・男性・フリーター)

金魚のフン
私は、ごく一般的なサラリーマン家庭に生まれました。父親は、いい意味での放任主義、母は典型的な神経質、何事も器用にこなす八方美人の姉と、人一倍人見知りで劣等感の強い私の四人家族です。 物心ついた頃の私は、自分の意志はほとんどなく、何事も他人任せで、自分から人の輪に入ることを極端に嫌い、姉の後について行動するような、いわゆる金魚のフンでした。おおらかさを装ってはいましたが、優秀な姉に、いつも劣等感を抱いていました。それでも、中国地方のど田舎だったので、幼稚園、小学校、中学校と、顔見知りの中で育ったことも手伝って、神経質特性はこれといって発揮されず、平々凡々と暮らしていました。
 
症状の現れ
そんな私は、高校入学と同時に、父の転勤で都会に引っ越しをすることになりました。私は、初めて強い焦りを感じ、無理に明るく振舞い、早く慣れようと、そのことばかり気にしていました。 友だちもでき始め、何とか学校に落ち着き始めた頃、突然、不安発作が襲いかかりました。学校での休憩時間中、いきなり足がすくんで鼓動が早くなり、天井が回っている感じがするという、いわゆるパニック状態(不安発作または心悸亢進)に陥ってしまったのです。友だちに、何とか自分の席まで送ってもらって授業となったのですが、落ち着こうと意識すればするほどパニックに拍車がかかり、心臓が破裂せんばかりの状態になりました。 とうとうどうしようもなくなって取り乱し、保健室に連れて行ってもらいました。これは生まれて初めての感覚で、自分は死んでしまうのかとさえ思いました。しかし、二~三十分すると、何もなかったように治まってしまいました。 その後、昼休みになり、教室に帰ってみると、クラスメートに、「もうあんな真似するなよ」と笑われたり、からかわれたりしました。すごくショックでした。これは人に知られてはいけない欠点なのだと、自分の中に封じ込めるようになりました。その結果、予期恐怖を強め、また“来る”“来た”という感覚もできあがり、よけいな防御体制を作って、発作の回数も徐々に増えていきました。 それからは、発作が起こると、足がすくむのをこらえ、歯を食いしばって平然を装うようになりました。いわゆる努力方向の誤りです。 最初は家族にも内緒にしていたのですが、すぐに様子がおかしいということがばれてしまいました。母親に、それは貧血だと丸め込まれ、医者にも行ったのですが、精神的なことなので、もちろん異常などは発見されません。その時は、訳のわからないまま、症状が出たり出なかったりを繰り返しました。「自分の意志が弱いから、そんなふうになるのだ」と思い、まわりからは、「何をやっているのだ」というような、軟弱者または厄介者扱いをされていました。 そんな中、高校を卒業し、予備校生となりました。元々プレッシャーに人一倍弱かったこともあって、極度の緊張と不安から、症状が再び現れました。一日の発作の回数も多くなり、またそのことにとらわれて、眠っている時にも発作が起こるようになり、夜も眠れなくなる始末です。気の休まる暇もなく、予期恐怖でがんじがらめにされ、とうとう外出もままならなくなって、病院に一ヶ月入院し、検査をしました。もちろん、異常は何も見つかるはずもなく、自律神経失調症と診断されました。退院後、幸運にも一校の大学に合格することができました。
 
森田を知る
大学生活は、親元から離れ、一人暮らしとなりました。症状と真っ向から向き合うしかない、家族のいない不安な毎日が始まりました。そして、大学が始まってすぐの身体検査で血圧を計測中、発作が起こり、血圧が異常に上昇しました。ごまかそうと思ったのですが、それもできず、正直に学校の保健医に、自分の症状を打ち明けました。親身に聞いていただいたことで、精神的にだいぶ楽になりました。それからは、ことあるごとに相談しに行きました。 そんなこんなで、二カ月が経過し、症状が出なくなったので、大学生活をエンジョイし始めました。症状が元からなかったように思え、毎日が楽しくてしかたありませんでした。 しかし、そんな日々が長く続くわけもなく、年が明けて、発作が再び起こりました。症状のことを忘れていた時との落差があまりにも激しく、苦しみに耐えられず、保健医を訪れました。そして、精神保健センターを紹介してもらいました。 早々に行ってみると、「君にはこの本が合っていると思うから読みなさい」と『森田療法のすすめ』(高良武久先生著)を薦められました。急いで取り寄せ、目から鱗が落ちる思いで、一日で完読しました。どの話も、共感するところがあり、あるがままに行動するために、本のあらゆるところに線を引き、書き出して、呪文のように「ビクビクハラハラしながらも本来の活動を行う」などを唱えながら、学校を往復し、部活や委員会活動に参加する毎日でした。 今思うと、他にも実習中、入浴時、トイレ、授業中、体育の授業中、実験中、スケッチ中、ビデオ鑑賞中、映画館、宴会、ドライブ・・・いろいろな場面を症状とともに過ごしました。 三年生の時、発作と予期恐怖のため外出困難にもなりました。どこにいても、予期恐怖を強く感じ、足が震え、立っていられないのです。友だちなどに、「足がすくんで、そのへんにうずくまっていても、ほっといてくれ」と言って、まわりの協力を求めたり、いつもより三十分以上前に家を出たり(この頃は、学校まで徒歩十五分のところに住んでいました)、ごまかさずに“あるがまま”でいようと心がけました。 このような私のわがままを理解してくれた友だちの協力もあって、何とか大学を卒業し、就職することができました。

入院を決意するも・・・
食品製造会社に就職して、宮城県勤務となりました。最初は学生気分が抜けず、怒られてばかりでした。半年たって、仕事にもだいぶ慣れ、楽しくなり始めた頃、予期せぬ事故が起こります。工場で作業していた人が、指を機械に挟まれました。近くにいた私は動揺し、発作を起し、見ているだけで精一杯でした。怪我をした人は、幸いにも大事には至りませんでした。 しかし私は、何もできなかったことを悔やみ、劣等感を強くして、また症状に束縛されるようになりました。それでも、大学の時は一人で乗り越えられたのだから、今回もできると思っていました。ただ、工場の人には知られないように取り繕っていました。 ある日、PL法(製造物責任法)に関する講習会に出席することになり、東京へ出張しました。症状に苦悩しながら、何とか講習会は終わり、軽く本社で打ち上げが行われました。早く帰りたい、そんな心境でした。鼓動が早くなり、症状をより意識し、実家に帰ればいいのだという甘い考えが頭をよぎりました。とうとう自分を抑えられなくなり、そのまま実家に逃げ込みました。そして、今までがまんしてきたものがあふれ出し、外出どころか立つこともままならないところまで陥り、会社に頼み込んで三カ月休職することにしました。 母につき添ってもらって、まず近くの病院の心療内科に行きましたが、そこでは相手にされず、次に森田をやっている病院に行きました。最初は、入院して早く治してしまいたいと思ったのですが、入院の予備段階として、一応のいろいろな検査をしていくうちに、自分がどのような状態なのかをある程度認識し、冷静さを取り戻しました。 そのうち入院も怖くなったので、通院で治療することにしました。通院以外の日は、家から這いずり出て、毎日少しずつ距離を延ばして外出するようにしました。“今日はあの電信柱まで”と決めて、電信柱に寄りかかりながら、どうにか散歩できるくらいにはなりましたが、とらわれがひどく、なかなかそれ以上良くならないので、森田の入院療法しかないと決心しました。ところが、そのとたん、嘘のように症状が治まってしまいました。

発見会に入会
それからほどなく、私は宮城に戻り、仕事に復帰しました。しかし、一ヶ月もしないうちに、また症状が出てくるようになりました。そしてその時、「発見会」という、森田を学び、それを生かしている組織があるということを母に教わって入会、すぐに集談会に参加しました(母は、私が大学生の時に、更年期障害で検査入院し、そこの先生に集談会を紹介されていました)。どの話を聞いても共感できたこと、出席しているかたがたが明るく元気であったことなどから、続けて出席して、元のように元気に働きたいと思いました。 そんな矢先、追突事故を起してしまいました。それから、会社の人に迷惑をかけっぱなしのまま、東京勤務という辞令がおりました。挽回するチャンスを失い、名残りを惜しみつつ、実家に戻ることとなりました。一人で乗り越えてやろうと意気込んでいただけに、ショックだったことを今でも思い出します。集談会も続けて参加しようと思っていたので、実家から近い集談会に出席するようになりました。 製造から総務への配置転換で、仕事にもなかなか慣れなかったことから、再び症状が悪化し、半年休職することになりました。そのくせ、向上心だけはやたらと強く、早く復帰するぞと、まず、健全な生活維持を心がけました。早寝早起き、家事の手伝い、図書館での勉強といった具合です。会社に勤めていれば当然のことなのですが、発作がある時は予期恐怖が強く、一進一退の攻防で、現状維持が精一杯でした。 この頃の集談会は、参加するのが主な目的で、自分の話を聞いてもらえるだけでうれしく、他のことが二の次になってしまい、幸か不幸か詳しい学習内容は覚えていません。それでも現状維持のおかげで、少しづつですが、発作は減りました。半年たってようやく職場に復帰しましたが、本社での仕事が合わず、結局三カ月後に退社し、その後症状はなくなりました。

転機を迎えて
実家は今まで社宅住まいだったのですが、祖母の家(同じ県内)を建て替えて引越すことになりました。ちょうどこの頃、基準型学習会が行われることを聞いて、参加することにしました。そして、時期を同じくしてアルバイトも始めました。基準型学習会に参加したことで、私の一方向の理解が、多方向、双方向の理解になった気がしています。 また、症状の現れなくなった自分の状態の分析、本来の目的や、当時の誤った努力方向などが、日記指導や総括によって、目に見えてわかりやすいものになりました。人の話を聞けというのは、このことなのだとも思いました。基準型修了後には、当時の代表幹事より世話人になることを勧められ、躊躇せず引き受けることができました。やることなすこと新鮮で、正直面倒なこともいろいろありましたが、引き受けてよかったと思いました。この頃には、二年間服用していた薬も少しずつ減らし、最終的には飲まなくてもよくなり、病院も医者と相談の上、通わなくてもいい状態となりました。

学習会の世話人に
アルバイト生活も丸二年たち、症状が出なくなって約三年強を経過しました。しかし、調子に乗って、夜更かしや食生活の乱れというような日々の怠惰の積み重ねによって、再び症状に引き戻されます。ブランクが長かったことで自信を失い、不安に陥って病院に行きました。「薬を飲んだ方がいいのでしょうか」という私のストレートな質問に、先生はこう答えてくれました。「薬を飲むと治りは遅くなるよ。」内心ホッとしました。このことばで私は、私のやり方でいいのだと自信を取り戻しました。今度こそ、仕事をしながら逃げないで乗り越えるぞと、意気込みました。 まずは基本に戻って、乱れていた生活態度を見直して、改善しました。仕事も、行きたくない、帰りたいとか、逃げ出したいという気持ちを抱えている“重たい体”を引きずりながら、休まず出勤しました。もちろん集談会にも、症状を理由にした欠席はしませんでした。三〇周年記念の研修会の役割も、どうにかこなしました。 そうして、半年間かけて症状も除々に減り、やがて消えていきました。症状が出た時は、一分一秒さえ長く感じたのですが、治ってみるとあっという間だった気がしています。 そんな折、基準型学習会の世話人をやってみないかという話がありました。しかし、治ったという自覚がまだない時だったことや、その他諸々の理由で断っていましたが、結局断りきれず、あまり乗り気でないまま、引き受けることにしました。実際は、打合せの段階になると、何となく楽しくて、充実感で一杯なのです。基準型学習会が始まる頃には、症状のことは気にならなくなっていました。ただ、少し治りすぎて、傲慢な発言をし、自問自答したり、自己嫌悪となったり、自信がついたりと、一喜一憂でした。 今になって振り返ってみると、忘れかけていた基準型学習のことを復習するいい機会であったとともに、それぞれの発想、考え、意識などなどのいい話がたくさん聞けました。

結果として
私は森田療法によって、症状にとらわれても、ある程度行動はできるようになりました。ただ、まわりの人に迷惑・心配をかけたとともに、多大な協力をしてもらったことも事実です。 今でも、愚痴を言って迷惑をかけることもよくありますし、自分が嫌いになる、劣等感に陥る、不安に駆られることも多々あります。でも、そんな面をひっくるめて私であると理解しています。私にとって生活の発見会の集談会は、たくさんの読書をするように、たくさんの人の話を聞くことができ、かつ、世代を超え、心底から話ができる貴重な場所となっています。また、何かしら得るものがあります。 「継続は力なり」ということばが示す通り、続けて出席することは、良くなるための必要手段だとも思います。それだけでも達成感が得られます。行動は起こさないと何も始まらないものです。ものは試し、ぜひいろいろな経験を積んでみてください。

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