森田療法の魅力 /(九州大学教授)田代 信維 (のぶただ)



森田療法とは

森田療法はご存じのように、神経症の治療としてつくられた療法です。その治療理論は、一般的なストレス、それから阪神大震災のような突然の危機に直面したときなどにも、心の整理をさせ、問題を切り抜けさせる理論、方法論として応用できるということです。まず、そのお話をするにあたり、森田療法は神経症の患者さんに対しての治療法であるということから、神経症の成り立ちと、その治療、またよくなっていく治癒機転を最初に、しかるのち、森田の持っている魅力をお話させていただこうと思います。



症状を問題にしないということ

 森田博士のおっしゃるには、ノイローゼになる人は、元来「ヒポコンドリー性基調」という「物事をくよくよ考えやすい」もともとの性格傾向を持っているというのです。それに加えて、向上心、完全欲といった「生の欲望」「よりよく生きたい」という思いが非常に強いかたである。「生の欲望」が強ければ強いほど、それと表裏をなす「死の恐怖」、死を恐れる思いが、それだけ強いといいます。したがって、「ノイローゼの状態というのは『死の恐怖』に心が支配されて、悲観的に物事を考えて、臆病で卑屈になっている」と森田博士は言っています。理論的に言いますと、「ノイローゼとは、あるべき理想の自分の姿、状態と、現実の自分を比べて、現実の自分を否定している人」と言えるかと思います。いわゆる「『みにくいアヒルの子』ノイローゼ」ということになります。そういうかたは、将来素晴らしい白鳥になる、白鳥の子どもであるということを自覚されると、もう少し気楽にノイローゼを克服できるのではないでしょうか。
  それから治療にあたって、森田博士は最初に「症状を不問にする」ということを強調されています。この症状を問題にしない、置いておくということは、ほかの精神療法では考えられない、身体の病気でも考えられません。症状を無視して、「あなたの症状は置いておきましょう。それ以外のことをしましょう」と言いますと、患者さんは、病気は症状が問題であり、その症状を取ってもらわなければ治ったと思いません。したがって、そういうことを無視されると非常に腹を立てるということが現実であります。ところが森田博士はその当時、「症状を不問にする」ということを、大きな治療のひとつのテーマにしておられます。なぜ森田博士は症状を不問にされるのでしょうか。 一般的には、症状というのは、不安なり緊張なり、ある原因があって起こった結果であるので、原因を治すことが大事だと考えます。それから、原因が治らないのであれば、症状をいくらいじくってもだめではないか、だから「症状を不問にする」のはあたりまえだろうと…。比喩的に言いますと、影を消そうと思って、いくら箒ではいても影は消えない、そういう意味で症状を問題にしてもしかたがないのではないか、と一般に考えるわけです。
  しかし森田博士が考えている「症状の不問」というのは、そういうものではないと、この頃思うようになりました。 なぜ症状が起こるのか。森田博士は、神経症というのは、「理想の自分」「理想の状態」を基準にして、「現実に今ある自分」というものを比べて悲観的に見ている。それを「思い考えていることに矛盾がある」といいます。その結果、「不安」、「緊張」が起こり、そして、その症状を否定する…そういうところに神経症の発症があると考えておられます。すなわち、現実の自分だけでなくて、起こる症状についても否定することが神経症の姿であるというのです。したがって、その「症状を不問にする」ことが、治療上非常に大事な部分になるというわけです。それは、どんな意味を持っているか、ということです。



入院森田療法・絶対臥褥

私が理解したところを少しお話してみたいと思うのですが、森田入院療法の治療期は、基本的には四期に分けておられて、各治療期には二つの治療目標が掲げられています。
  一期は「絶対臥褥」という安静の時期。一つには疲れをとる。もう一つは「煩悶即解脱」。独り部屋に閉じこもって安静にしている間に思い悩んで、そして悟りを開く。それを「煩悶即解脱」といい、そういうことをしなさいと、森田先生はおっしゃっています。その「悟る」ということはどういうことか、私の今理解しているところでは、悟るということは「あるがままを認める」、そうすれば、それ以外に比較するものがないので悩むことがなくなる。悩むことがなければ、何も苦しむことはないということになります。
  この「あるがままを認める」ということですけれども、これはなかなかむずかしい。症状を気にしているかた、悩みを持っているかたにとっては、それを諦めるというのはむずかしい。基本的に悟りとはそういうものでしょうが、「現在ある症状」「現在ある自分」を「あるがままに認める」ということが大事、しかし、認められないところが問題であります。どうして認められない気持を認められるように導くかということが、森田療法の持っているひとつの素晴らしい魅力ある部分であると思っております。 その過程をこれから少しお話してみたいと思っております。



不問を実行することが「あるがまま」

 「あるがまま」ということばは平易なことばですが、よく、「あるがままにしなさい」と言いますと、皆さんノイローゼで悩んでいるかたは、「そのまま悩み続ける」ということをされる。ノイローゼになった時点というのは、先ほどもお話しましたように、「自分を否定した自分」があるわけです。そのままの状態を認めるということは、「否定し続ける」ということになって、納得いかない。また、症状へのこだわりがあると、「こだわり続ける」と理解するかたがいます。そのために「『あるがまま』では治らないのではないか」と言われるのですが、これは理解のしかたの違い、理解が浅いということになります。「あるがまま」とは、「現実の自分そのもの」「症状そのもの」を認めるということになるわけです。
  ところで、どうしてノイローゼを克服するかということですが、神経症のかたというのは“とらわれ”があって、症状が「なくならなければすべてが治らない、よくならない」と考え、「あってはならない」と思うわけですね。そこが悩みの始まりであります。神経症のかたは受身的で消極的な態度が見られるために、大体多くの場合は、「石橋をたたいて渡らない人」であります。そのように否定した自己にとらわれて、思いに矛盾が起こって、そのために症状が出現する。その症状に注意が向いて、森田博士が言う「精神交互作用」が起こり、ますます症状に注意がいくことになる。それが「神経症そのものの成り立ち」であると森田先生は言っておられます。 この精神交互作用をどういうふうにして切るかということですが、その話に入る前に…。
  神経症は現実にある症状を否定するだけでなく、根底にある「現実の自分を否定していること」が「神経症の基本問題」であると森田先生は見ておられました。「症状を不問にする」ということ、それは取りも直さず、症状ではなくて自分自身、症状は自分にあるわけですから、その自分をも認める(不問にする)。認めることを「不問」ということばで言っているのだと、この頃感じている次第です。その「不問」を実行することが、「あるがまま」を実行することになるということであります。



死の恐怖から生の欲望への転換

 神経症の人は、わかっていても、やはり現実の自分は認められない、だめな自分は困ると思うわけです。森田博士のことばによると、それは「欲望」のためです。「欲望はこれを諦めることができぬ。死は恐れざるを得ず」と言っています。「これは絶対的なものである」と。それをどう克服するかということですが、その「死の恐怖」を「生の欲望」にどうして変えるか、それが森田療法の持っているすばらしい点であろうかと思います。その方法は三期で教えているわけですが、その前に二期があります。
二期で何をするのかといいますと、そういうことができるようになるための準備段階であるということになります。二期での目的は、「物事に対処する基本的な態度を身につける、養成する」期間であると思います。現実的にどうするかといいますと、これも二つあって「行動の自発性、自主性」みずから行動するということと、「気分本位の打破」。この二つを森田先生は治療の二期にあげておられます。その理由は、大体神経症の人というのは受身的で消極的で、「石橋を叩いて渡らない」わけですけれども、これを「能動的に、積極的に行動しましょう」といい、その訓練をします。もう一つは、「気分本位を打破する」ことです。先生は、まず「『事実本位』『目的本位』で行動しましょう」といい、その訓練をするわけです。
 自分で「よく考えて、積極的に、しかも気分に流されずにがんばる」ことを、簡単な作業療法で始める。こういうことができるようになる。二期の卒業試験といいますか、こうなれば卒業だという基本的姿勢は「恐怖突入」の心構えができたときということです。そうすると、あなたは二期の卒業生となるわけです。三期では、「死の恐怖」を「生の欲望」に変える訓練をします。いわゆる「虎穴に入らずんば虎子を得ず」ということわざに示されるかと思いますが、まず、みずからその中に飛び込んでいくという心構えがいる。そこで初めて、「死の恐怖」を「生の欲望」に変えるというトレーニング、訓練ができるということであります。



「価値観の没却」と「不可能なことなし」の体得

 それでは三期の話に入らせていただきます。三期では、「何事についても、『事実本位』『事実唯真』であたる」と森田博士はおっしゃっています。また、「現実にある目に見えるものがすべてである。それにしたがって、判断、行動することが大事である」とおっしゃっておられます。その「事実唯真」に基づいて、「生の欲望」にしたがって、「恐怖突入」をするということが大事です。そこが大体、三期のポイントでもあるわけです。これが森田療法の「虎の巻」の部分になります。これがうまくできれば、森田療法を伝授し終えたということになるわけです。
 三期ではどういうことをするかといいますと、ここでも森田博士は二つの治療目標をあげておられます。一つは「価値観の没却」。物事の「『善し悪し』『好き嫌い』をつくらない」「すべてを平等に見る、受けとめる」ことが「価値観の没却」ということです。もう一つは「『不可能なことなし』の体得」という治療目標を掲げておられます。この二つをうまく組み合わせて、「死の恐怖」から「生の欲望」に置き換えられるということをしておられます。
そのことについて少しふれさせていただきますが、いろいろな事態に直面したときに、好き嫌いを言わない。「ぼくはそれは嫌いだから、しない」とか「それはヤバイから逃げておく」とか、そういうことを言わずに自分にふりかかったものは受けとめる。そのことの善悪、是非、善し悪しは言わない。それは基本的に私の理解するところでは、森田博士の言っている「思想の矛盾」というのがあって、ノイローゼ、神経症の人は思いに無理がある。無理ができるというのは、「かくあらねばならない、あれではだめだ」という、区別でなくて差別をする。そこが問題です。そのために迷いができて、ぎくしゃくして、判断を誤るということが起こってくるかと思います。だからまず森田博士は、「価値観を入れないで物事に当たる」ということをすすめておられます。
 今ひとつは、「『不可能なことなし』の体得」でありますが、考えようによったら、「そんなことできるわけないじゃないか」と思われるかたもいるかもしれません。「人間不可能なことがないわけがない。可能なこともあるけれども、不可能なこともあるのだ」と思うかもしれないのですが、これはものの考えかたの問題であって、基本的には直面した問題については「処理できないことはないのだ、うまく対応できるのだ」ということを言っておられるわけです。



できたことに目を向ける

 話は横道にそれますがキリスト教でも、そういう教えをしているように聞いたことがあります。いろいろな苦しみに直面したときに、「それはあなたが処理できる、あなたが受けとめられる。だから神はあなたにそれを課しているのだ」という言い方をされると聞いたことがあります。これはまさに「『不可能なことなし』の体得」と同じことを言っています。
どうしたら体得できるかということですが、まず神経症、ノイローゼのかたは物事をどう考えているかというと、森田博士は次のように言っておられます。「『できたこと』よりも『できなかった』ことに目が向いて、何度試してみても失策、失敗して『不成功の落胆』を反復体験する。そのために、またその次にやってもできないだろうというふうに考えている。それは『感情の法則』にしたがった『落胆の繰り返し』をしている。それが徐々に積もり積もって、ますます気落ちして、臆病で卑屈になってしまう」 それではどうしたらよいのか。森田博士のことばですが、「治療にあたっては『事実唯真』、事実、すなわち現実の実際の問題を客観的に見て、それに従って行動する。そして『できた』ことに目を向けて、その『できた』という小さな成功の喜びを反復体験する。そのことによってますます元気になり、勇気と自信を取り戻すのだ」とおっしゃっています。
 こういうことがどうしてできるのかということになりますが、ここが神経症の人にとって非常に難しいところです。それは、完全欲が強いため、「できなかったこと」の方についつい目がいくからむずかしいのです。
ここで例をあげてみたいのですが、100点満点のテストを皆さんも受けたことがあると思います。たとえば、皆さんのお子さんが100点満点のテストを受けて、30点とって帰って来たとします。そうしたら、そのときにがっかりするか喜ぶか、快感を覚えるか、不快感を覚えるか、どうでしょうか。
多くの場合、やはり30点はがっかりする。なぜがっかりするかといいますと、30点を見ているのではなく、マイナス70点を見ている。できなかった部分に目がいっているのです。それでがっかりする。考え込む。だからマイナス70点を見て、次の試験を受けるとまた取れないのではないか、また30点ではないかと思う。そこが問題です。森田博士が言っておられるのは、「取れた30点、現実にある、得点できた30点を見なさい。そちらに目を向けなさい」といっているのです。「昨夜一夜漬けで勉強したら30点とれた。それだけ取れたのだから、もし、この次もう二晩徹夜すれば60点とれるかもしれない。よし、やってみようか」というふうに物事を考えることができる。
 そう思えば、次の試験を受けるときが楽しみになる。「どれくらいできるか、やってみよう」ということになる。「とれなかったらどうしよう。また30点、マイナス70点だったらどうしよう」と思うと「ねばならない」ですね。これが「できなかったらどうしよう」という思いを引き起こさせる。
先ほども質問に出ていましたが、心配のほうに心が動きますと、受身になってしまいます。そこが一番のポイントで、森田先生は「『事実唯真』、できたこと、あること、見えること、を大事にして行動しなさい」とおっしゃいます。その訓練を三期でやります。やる場合に「善し悪しをつけない」。神経症は特にこじれやすい問題を含みますので、「つけない」ということが大事なポイントになります。そこまでができますと、大体基本的なところは卒業のはずです。しかしもう一つ四期があります。



「境遇に柔順である」と「あるがまま」

 四期は治療の最後の仕上げですが、「日常生活訓練期」として、森田博士は、ある治療期間をつくっておられます。私は、「そのときは一応のことはできたから、それを練習というか、日常生活のことをしながら、基本的なことを覚えたかどうか確かめて見られる」というくらいに思っていました。確かにそれはそれであるのですが、もう一つ問題があります。先生は四期にも二つの治療目標を掲げておられます。一つは、皆さんよくご存じの「境遇に柔順である」「あるがまま」。「『あるがまま』を体得して『あるがまま』で日常生活を訓練しなさい」とおっしゃっています。
 もう一つは、「純な心の体得」ということをおっしゃっています。「純な心」については、森田先生はいろいろおっしゃっているのですが、ではどうすればいいかということについては、あまりふれられていません。この二つの点が第四期の大事なポイントです。
二つのうち一つ、「境遇に柔順である」「あるがまま」については、これまでのトレーニングをずっとやればいいということですが、森田博士は「おかれた境遇で、これまで学習してきた森田療法のポイントを実践に移す。すなわち『自発的に』『好き嫌いを言わずに』『目的本位』『事実本位』で行動する。そして『できたこと』に目を向けて、できないことはおいておく。『小さな成功の喜びを反復体験』しなさい。そうすれば『死の恐怖』は薄れて、『生の欲望』に従った行動ができる」とおしゃっています。
 これは「臆病で卑屈な自分」を「勇気と自信のある自分」に変える、言い換えますと、「自尊心」「自我尊厳」を回復させる治療なのであります。これは森田先生が、「これまで体得した行動を繰り返しやれば自尊心が取り戻せる」と言われていることです。



純な心の体得とは

 それからもうひとつ、「『純な心』の体得」でありますが、森田博士は「これが最後の、最終の全体を含めた目標である」とお考えになっています。しかし、その「純な心」というのは、どんなものかといいますと、非常につかみにくい。「自分をあざむかない本然の感情であって、禅でいう『初一念』で、最初に感じたもの、一つの感情、ことばにならないものである」と森田博士は言っています。例をあげて、こんなことを言っておられます。
 ウサギの世話を任されている人がいた。あるとき、野良犬が来て、飼っていたウサギをかみ殺した。そのとき起こる気持は、野良犬に対して「にくらしい」。ウサギに対しては「かわいそう」と思う。森田博士は「これが『初一念』である。これが純な心である。しかし、その先二念、三念と次々と考えが起こると問題が起こる」と言っておられます。
 野良犬が人目をかすめて入ってきて、ウサギをかみ殺した。野良犬をにくらしいと思うわけです。自分が悪いのではなく、野良犬が悪いのであって、世話をしていて、自分が責任をとらされるのはまっぴらだ。……こう思うのを森田博士は「悪智」と言っておられる。これも禅のことばのようですが、そうおっしゃっています。
 それでは「純な心」とは何かといいますと、森田博士が言われるのは、仕事の目的であった「飼っているウサギに対する思い」が大切です。「かわいそうなことをした」と思う心から出発すると、注意をして世話をしていたにもかかわらず、ウサギを死なせた。どうしてそんなことになったのか。自分がこれだけ一生懸命やっていたのにできなかった。ほかの人に任せられない。二度とそういうことが起こらないようにしようと、創意工夫をすることになる。……それが「純なこころ」である。
 なかなか微妙なところでむずかしいのですが、結論的に言いますと、いろいろな問題に直面してそこから逃げるのは、これは「悪智」からである。何を、どう考えたかを別にして、それから逃げずに受けとめて、事実を見てそれに対応する。創意工夫をして、それを改善する、という思いがあるときには、それは「純な心」でやっている、と理解されるといいのではないかと思います。「ほとんど紙一重で変わってしまう」と森田博士は言っています。
 また、「そこが『悪智』と『純な心』の違いである。『純な心』から出発すると、『失敗は成功のもと』ということわざが生きてくる。『失敗は失敗だ』と思うか、『失敗することによってそれは成功を導くのだ』と思うか、その分かれ道は『純な心を持っていたか』失敗したときに『純な心で対応したかどうか』である」と、森田博士は言っています。
 これはどういうことかといいますと、勇気と自信のある「自尊心」だけでなく、「自己実現」、すなわち自分のやってみたいこと、自分の能力の限界を乗り越える「場」が与えられるし、それを達成できることを教えてくれているのです。「純な心」というのは、「自己実現達成の原動力」でもある、そういうふうに理解されるわけです。



三つの呪文

 このように、普通、心身が健康で、いろいろ問題があっても、うまく乗り越えておられる人々は、森田療法で言っているようなことを知らない間にやっている。
 ところで、ある先生が、次のような三つの呪文をおっしゃいました。一つは「しゃーないなー」、二つには「いろいろあらーな」、そして三つ「なるようにならーな」。私は豪放磊落(ごうほうらいらく)なその先生が言われたということに、びっくりしました。なぜかといいますと、一見この三つの言葉は、なんとなくあきらめの言葉のように聞こえるわけです。しかし、よく考えてみますと、最善をつくして努力して、その結果からまた、新しく再出発しようと思えば、現実的に問題を認めた上でないと次のステップに進めない。そうでないとまた同じ失敗をするわけです。これは、「純な心」と同じだと思いました。「純な心」を生かす一番の近道というのは、この呪文であろうと思っております。「しゃーないなー」、「いろいろあらーな」、「なるようにならーな」ということです。
 これだけでは、理解しがたいかたがおられると思いますので、例をあげてお話をしてみたいと思います。
 経済評論家で有名な竹村健一先生が『人生相談』という本を出版しておられます。その一節にあるものを私は読みまして、これは説明に役に立つと思いましたので、お話させていただきます。それは、無二の親友に恋人をとられて、人間不信に陥って悩んでいる青年の質問に、竹村先生が答えている内容です。
 ――その青年に対してケジメをつけようと思って、相手に詰め寄らんほうがええね。相手は「悪かった、もうそんなことはしない」と言うか、けんかになって別れて二度と会えなくなるか、どっちかや。すぐ謝るようなやつは、大体また同じことをやる。けんか別れしてしまうと、もう会えなくなるしね。そんなときには、「人間とはそんなものや」とあきらめをもつことやね――(それは「しゃーないな」)
 ところで、あきらめてそこで終わってしまうと人間不信に陥ってしまう。それではあかんですよ。世の中にはたくさん人間がいる。二人に裏切られても日本人は一億おるんだし、世界中だったら四十億おるんだから、二人差し引いても、残り三十九億九千九百九十何万はええ人かもわからんしね――(これは、「いろいろあらーな」です)――
 だから、すんだことにあまり嘆き悲しんだり、相手をぼろくそに言ったりしないで、いい方に物事を解釈していかなあかんですよ。人間簡単に言うと得なんだね、そういうほうが得なんだね――(これは「なるように、ならーな」です)
そういうふうに答えておられます。
 これを森田の理論で考えますと、「ケジメをつける、白黒をつける」ということは、「好き嫌い、価値観をつける」ことになる。「価値観をつけないようにしましょう」ということが、森田のひとつの考えかたですね。「ケジメをつけないというのが大事だ、それであきらめなさい」、それが「事実」である。あるがままを認める。
 二番目に、人間不信に陥ろうとしている人には、「世の中にはたくさん人がいるんだ。自分を裏切ったのはわずか二人。二人を差し引いてもたくさんの人がいるんだ」。これは事実ですね。親友に裏切られて自分がひとりぼっちと思うと、とてもじゃないが生きられませんが、「裏切ったのは二人であって、ほかの人たちは、ぼくを裏切ったわけではなくて、たくさんおるんだ」と思えることが大事で、これが「事実唯真」であります。
 それから、三番目に、「いいほうに解釈したらいいんだ」ということ。裏切った二人=「できなかったこと」に目を向けるのではなくて、「できること」に目を向ける。それが先ほどから言っている「生の欲望」、よりよく生きるための方法である。裏切った二人だけがすべてだと思うと、「死の恐怖」に陥ってしまう。そこのところをよく理解していただければいいと思います。このように、こういう無二の親友から裏切られたときに、心の切り替えができる方法を、森田療法では教えているわけです。
 このように、「あるがままを認められる」ようになると、不慮の事態に直面しましても、早く「平常心」になることができます。これは「境遇に柔順である」ですね。「あるがままを受けとめて」そこから再出発する、「自分を生かす」、「創意工夫をする」ということが生まれてくるわけです。
 「純な心」の話をもう少し続けさせていただきたいのですが、森田先生の言葉によりますと、「この『純な心』は、隔離生活――治療においての『絶対臥褥』――において、周囲に対する気がね、煩累(はんるい)を離れ、善悪、是非とかいう理想的の予定を没却して、拘泥のない自分自身になったとき体験されることであって、森田療法の進行中に次第次第に会得される」と説明しているわけです。これをもう少しわかりやすく平易な言葉で言い換えますと、「まず一人になって、人の目や口を気にすることなく、わずらわしい関わりあいを捨てて、とらわれのない本来の『あるがままの自分自身』になったとき、初めて体験される心であり、それは治療が進展するにつれて徐々に会得される」というのです。
 これまでのことで「境遇に柔順」、「あるがままを認める」ということと、「『純な心』の体得」というものが森田療法によって得られる、ということはおわかりになられたかと思います。それで、「創意工夫をもたらす原動力」となる「純な心」について、もう少し考えてみたいと思いますが、森田先生ではなくて、松下電器の創業者であって今は故人になられた、松下幸之助先生が唱えておられる「素直な心」というものをご紹介させていただきます。



「純な心」と「素直な心」

 これは、「純な心」と似て非なるものでありますが、お役に立とうかと思いますので、「純な心」をよりよく理解していただく一つの資料にできたらと思います。松下先生は、この「素直な心」というものを1976年、24年前に書かれた本で、当時の世相を批判して次のように述べています。
 ――戦後、物資が豊かになることを一つの大きな念願として、その実現のために並々ならぬ努力を続けてきたが、-(中略)- 今日、この物の豊かさに比べて、精神的な心の豊かさが足りないのではないか。たとえば、お互いが自己の利害や立場にとらわれて、自己中心的な考えや行動に走りがちである。また他の人々の存在を無視してふるまったり、罪を犯してもケロリとしているとかいったように、社会の各方面において心の貧困、荒廃の姿が見られる。――
 これは24年前のことです。いまだ、それが進行しているように思う昨今ですが、その大きな理由のひとつとして、――お互いの人間が、「素直な心」というものを見失っているためではないか――というふうに結んでいます。
 それから松下先生は、この「素直な心」が出にくい理由として、「とらわれが生じやすい」ことをあげておられました。その原因として、旧約聖書に見ます『禁断の木の実の話』を例にあげています。人間に「理性」が備わったために、本来備わっている「素直な心」が、諸々の知識や知恵によって覆い隠されてしまう、それが原因で現在の不幸な姿があるのではないか、という分析をしています。
 松下先生の「とらわれ」とか「素直な心」と、森田先生のいわれる「とらわれ」と「純な心」というのは非常によく似ています。松下先生は、「理性や自己中心的な欲が、『素直な心』を曇らせて、人と人との間に不要な争いを引き起こさせ、お互いに住みにくい世の中にしている」と諭しています。森田先生は、「かたくなで主観的な考えにとらわれるために『純な心』が覆い隠されて、自己中心的な『悪智』が働き、自分自身を世の中に住みにくくしてしまっている」といいます。
 そこで、松下幸之助先生が言われる「素直な心」があると、どういうよいことがあるかということを10項目あげているので、それを森田と対比させながら簡単に説明させていただきます。
1 「素直な心」が働いたとき、なすべきことを正しく知り、それを勇気をもって行う姿が生まれる。
森田で言いますと、「目的本位」と「勇気と自信の奪還」にあたるかと思います。
2 「素直な心」になれば、すべてに順応できるので、何でも自分の思い通りになる。
これは「境遇に柔順である」という言葉と対をなすのではないかと思います。」
3 「素直な心」になれば、何事に対してもこだわりやわだかまりが心に残らない。
これは「思想の矛盾が起こらない」というのとよく似ています。
4 「素直な心」になれば、現状にとらわれることなく、日に新たなものを生み出していくことができる。
これは森田先生がよく言われる、「日に新たに、また、日々に新たなり」ということとよく似ているように思います。
5 「素直な心」になれば、危機に直面してもこれをチャンスと受けとめ、災いを転じて福となすことができる。
これは、先ほども述べましたが、「死の恐怖」にとらわれるのではなく、「生の欲望」にしたがって行動すればこういうことが起こり得る。森田先生は、正岡子規の話を入れて説明されて、「運命を切り開く」という言葉を使っておられます。
6 「素直な心」になれば、自分の立場をわきまえて、常に慎むという見識も生まれる。
これは森田でいいますと、「物事の実相を見ることができる」ということに当たるかと思われます。
7 「素直な心」になれば、いらざる対立や争いが起こりにくくなる。
森田先生が「感情の法則」のところで話されている、高知の格言を出させていただきますが、『男は、腹が立てば三日考えて、然るのち断行せよ』。三日間我慢して考える。それでも腹が立つことがあればそれをしなさい、と。「純な心」、「感情の法則」にしたがった考えです。
8 お互いが「素直な心」になったら、何が正しいか正しくないかという区別がはっきりし、共同生活の秩序が高まる。
森田療法でいきますと、「事実唯真、ものをよく見つめる、価値観の没却、そうすることによって差別ではなく区別ができる」と言っております。
9 お互いが「素直な心」になれば、一人一人が自分の持ち味を充分に発揮でき、適材適所の実現が進められる。
これは、森田では「物の性を尽くす」という言葉でよく説明をされております。
10 「素直な心」になれば、病気になりにくくなり、たとえなったとしても比較的治りやすくなる。
 これは伊丹先生が言っておられるように、「生きがい療法」のなかで実行しておられることでもあるわけです。 このように、森田先生のいわれる「純な心」と、松下先生の言っておられる「素直な心」というのは、非常によく似ているということはおわかりいただけると思います。森田先生は「人間個人の心の中の葛藤、悩みの処理」を問題にされましたが、松下先生は、「世の中、人と人との間の交わりの中での悩み、抗争、争いごとをどう処理したらよいか」ということをおっしゃっている。「一個人の、心の世界のなかの問題」として見るか、「世界の、人間人類の生きている中での問題」として見るか、それが「純な心」と「素直な心」との違いであろうかと思いますが、基本は同じではないかと思います。松下先生は、そういう「素直な心」はどうしたら得られるだろうかということは述べておられません。しかし、「『素直な心』を皆さんが持てば、世の中は素晴らしくなる。今のような抗争の社会でなくてすむ」とおっしゃっています。森田先生は、「あなたの心の中での悩みや苦しみは、『純な心』を得る方法が得られたら、そういう心配はなくなる」と言っておられます。お二人の考えは、「個人の問題」か「世の中の問題」か、その違いはありますが、多分これは最終的な、基本的なところでは、相通じるものがあるのだと私は思っています。



ストレスを解消するための三つのC

 最後にもうひとつ。現代は「ストレス社会」と言われるようにバブルが崩壊して、大変な時代を迎えています。日常いろいろ起こる問題も、だんだん年を追うにしたがって、過激で悲惨な事件が多くなってきているわけですが、お互い現代に生きて、ストレスに満ちた日常生活と思いますが、「ストレスからの解放」をどうしたらよいか、という問題もあります。 森田療法もストレスを解放させることを、最初にちょっとお話しましたが、アメリカでは、ストレスを解消するための方法として、「三つのC」という「日常生活の習慣の問題の処理の仕方」をあげています。

1)「コグニション(認知)」のひずみを正す
 最初の「C」は、「『コグニション(認知)』のひずみを正す」。これはどういうことかというと、「認知のひずみ」とは、ある一つのことや、思いにとらわれているために、ほかのことが見えなくなり、聞こえなくなって、心の自由を失い、体の自由を失っているという「とらわれ」を言っている。その「とらわれ」から解放されれば、心や体が自由になって、全体を広く見渡すことができるし、必要なアドバイスに耳を貸すことができるし、的確で正しい方向を見つけて行動することができるというのです。「認知のひずみ」の修正は森田先生が、治療のなかで常に言っておられることであります。

2)「コントロール感覚」を身につける
 二番目の「C」は、「『コントロール感覚』を身につける」。「コントロール感覚」とは、どういうことかというと、自主的に主体性を持って行動する、いろいろな感情は自分のものである、自分がコントロールする、ということであります。この「コントロール感覚を見失うとストレスに脅かされる」と言っています。 どういうことかというと、仕事をしている時、自発的でなく受身で、逃げ腰でやっている。まわりから、いろいろ要求が大きすぎるとか、自分の力以上の仕事を割り当てられていると思っている。自分がやる使命としてその仕事があるのではなくて、人から要求されている。それから能力以上のことを、自分がさせられている…、と思い、受身でやっている。それがストレスというのです。そういうコントロール感覚を見失った状態になると、その行き着くところは、「学習性無力症」。また失敗の繰り返しで、やる気を失ってしまっている「燃え尽き症候群」。主体性を失って、受身で仕事をして、不完全さに悩みながら、成果がいつも得られないと思っていて、ついにやる気をなくした中年の人を職場で時々見かけますが、その人たちが「燃え尽き症候群」といわれるわけです。これらの疾患の人は、「自発性」とか「事実本位」、「目的本位」、「価値観の没却」、「恐怖突入」とか、「できたことに目を向ける」とか、「小さな喜びに反復体験をして自信をつける」ということを忘れてしまっているのです。

3)「コミュニケーション」三番目の「C」
 これは『コミュニケーション』です。自分の考えにとれわれ、視野が狭くなって独善的な人というのは、人の意見に素直に耳を貸さない。お互いに意志の疎通性を欠く。結果的には、孤立してしまうということが起こり、ストレスの原因になる。だからコミュニケーションを大事にしましょうというのです。これはたとえば、屋台や赤ちょうちんなどに行って、同僚と一杯飲みながら、上司の悪口を言って帰る。そうすると、次の日一日またがんばって仕事ができる。まあそういうことというのは、日常していることですが、こういうものがなくなるとストレスになる。思い込みや「とらわれ」から解放されなくなる。孤立しますと、考え方も独善的で膠着(こうちゃく)したものになって、かたくなな解決方法しかできなくなる。抜け道がなくなってくる。 先日のバスジャック事件での17歳の少年は、まさにこういう状態に追い込まれて、「バスジャックしか自分の解決すべき道はない」と判断してしまった。たぶん少年だけではなく、お母さんも、少年の家族も、追い詰められて解決の方法はそういう方向に行ってしまった。ほかに解決方法がなくなった。お話を聞きますと、いろいろなかたに相談しておられるようですが、思い込みがあるために、結果的にバスジャックをするという結末になってしまったのだと思います。 後日談ですが、最初は母校にたてこもるはずだったとのことです。いずれにしても、少年もご両親もストレスのなかで孤立してしまったところに問題があると、私は思っております。
  以上、「森田療法の魅力」ということでお話させていただきました。
2000年5月 30周年記念講演会での講話

代表的な体験談を 集めてみました
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一度
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