逆説とリフレーミングにまつわる森田療法あれこれ


大通公園メンタルクリニック 山田秀世
-平成21年7月21日 生活の発見会・北海道幹部研修会でのご講演より-



みなさん、こんにちは。今日は森田療法的な関わり方の中でも、とりわけ特徴的なコミュニケーションの形態としての逆説とリフレーミングを取り上げて、この2つのテーマに纏わる森田療法のあれこれを、おもしろ楽しくお話してみたいと思います。

逆説は英語ではパラドックスって言いますが、もう半分日本語化しているようですね。一番わかりやすいのは、症状を取ろうとしなければ症状は薄れてゆくという例ですね。あるいは、人前での発表が苦手な人が、アガッってはいけないと頑張れば頑張るほどアガってしまい、緊張すまいと身構えれば身構えるほど、逆に緊張感が強まってしまう。ところが、これとは反対に、緊張したところを意図的に少しだけ強調して出してやってごらんと指示された途端に、逆に拍子抜けしてしまって、思うように?緊張できなくなっちゃった?!というような当初の狙いと反対の結果が出るような現象のことですね。

森田療法の治療過程だけでなく、神経症や人の悩みごとというような極めて人間臭い出来事の中では、このような逆説的な現象は頻繁に出没しているんですが、それはまた治療技法としての可能性も大いに秘めてのいるのです。
 

それから、フレームというのは枠組とかいうことですね。反復の意味を持つ接頭辞「リ」をつけてリフレーム、これで枠組みを再構成するという意味です。何をリフレーミング(再構成する)のかと言うと、現象や言葉の意味や内容を違った角度から再構成する、あることを全く違う視点からとらえ直すというような手順であると、そんなふうに考えてもらえば結構です。

例えば、森田療法では、不安を単に人間の忌まわしき弱点というようにはとらえずに、よりよく生きたいという発展的な意欲や期待の裏返しであり、建設的なエネルギーの存在の反体側面からの証しである、というふうに考えますよね。ですから、不安というものは、我々が前向きに生きようとする根源的なエネルギーが、もうひとつ別の形で表現されたものに過ぎないんですね。だから、生きるエネルギーの表裏一体である不安を除去してしまおうなんて、それは筋違いの狙いであって、誤った行動である、と考える。これが森田療法の教えでしたね。
 

このように不安に肯定的な意味づけが一旦なされた上で、不安への正しい対応法として、その裏側にある向上発展したいという欲望の方向に添って、前向きな行動に対し、たとえシブシブでも、嫌々であってもよい、そんな気分なんて儚く実体のないものは、とりあえず横に置いておいておく。そして、とにかく歩みを一つ前へ進めることだ、というように、しかるべき行動課題が指示される、これが森田的指導の定番ですわね。

つまり、森田の代表的な観点である生の欲望と死の恐怖の両面観に代表されるように、ある一つのことでも、角度を変えてとらえ直してみると、それは全く異なる表現形式をとるだけでなく、それに応じて驚くべき意味が顕現してくることになるんだという点をリフレーミングは教えてくれます。

例えば、死の恐怖におののき忌み嫌っている人に対して、その恐怖心は、よりよく生きたいという欲望があってこそ存在するものなのだという視点は、その人の世界観に確かに抜本的な変革をもたらしても不思議ではありません。実際に、以前、私はある一人の年老いた男性患者さんに、森田療法的なものの見方を教示したときのことですが、その次の回の診察の際に、その御老人は「症状に対する考え方のコペルニクス的な転回が起きた」という印象的な表現で、その感激を伝えて下さったことを思い出します。

以上のような、逆説(パラドックス)と枠組み変換(リフレーミング)について、今から少々具体的に話を進めてゆきたいと思うのですが、その前にどうしてもお話しておかなくてはならない重要な事項が実はもう一つあるのです。

それは、この発見会の中でも随分と以前から集談会なんかでの問題点として指摘されてきたことで、とても重要なことなのですが、初心者や後輩の参加者が訴える悩みごとや症状の内容に関して、それに耳を傾ける立場に置かれている先輩会員の人たちが、ある程度は共感的な姿勢で聴くことを忘れてはならないということです。つまり、発見会参加者のビギナーたちへの態度として、少なくとも最初のうちは「あなたも色々とお悩みでタイヘン状況なんですね、苦労なさって来られたんですね、結構お辛いなかをよく頑張ってこられましたね・・・」、というように支持的、共感的に接することが不可欠だということなのです。

そもそも発見会も、他者と相互に心理的にサポートし合う人間集団の一つであり、自助グループであるという性格上からそのような基本的な対応がないと始まらないように思います。特に今の若年層の気質を考慮すると、尚更そうだと考えられます。昔みたいに先輩会員から一喝?されて、それに何クソ!と反発して伸びてゆくようなケナゲな日本人というのは、どうも近年めっきり減ってしまったようなのです。今日とみに“増殖”が著しい草食系男子なんぞに対して、旧世代のオジさん連中が“一喝攻撃”なんかお見舞いしようもんなら、もう永遠に?集談会には現れず、部屋にこもって2ちゃんねるで悪口を書きまくるみたいな・・・何か、そんな傾向は少々嘆かわしいような気もするんですけど、まあ、これも現代若者気質の事実唯真?ですからね、そうした時代性を踏まえた対処をやらんといけないのでしょう。それこそ発見会内での実践課題として、「自然に随い境遇に従順たれ」に則った態度を、先輩会員が率先して規範を示してゆく必要があるのかも知れません。

さて、それでは少々前置きが長くなってしまいましたが、今日の本題の一つめ、逆説(パラドックス)から説明してゆきましょう。

まず、分りやすい例として、私が中学時代に数学の先生が集合・論理のところで逆説の例として説明してくれたある話を紹介します。ある中学生の生徒が学級会の最中に突然立ち上がって大声だ叫んだそうです。「この教室の生徒は皆ウソつきや!」と。そのとき彼は別の生徒の1人から「それなら、そういうお前のその発言自体もやっぱりウソなんやな」って静かに突っ込まれたとき、どうにも反論できなくなってしまう、つまり自分自身の発言自体が自己矛盾を含んでいるんですね。

それで、ここで説明が必要になるのは、どうして逆説的な対応が神経症的な苦悩とか症状に有効となるのかということなのです。

それは、人間一般のこじれた悩みや神経質症状が形成されるに際して、いわゆる悪循環というメカニズムが作動しているからなのです。注意と感覚、この両者の悪循環は精神交互作用と呼ばれて、ヒポコンドリー性基調と並んで神経質症形成の最も基本的な構成要因であるってこと、これは森田療法理論の“一丁目一番地”でしたね。

このような、いわゆる悪循環から抜け出すには、その性質上からして抜け出そうとすればすれほど、アリ地獄のようにますます泥沼に巻き込まれていって、にっちもさっちも行かなくなるのです。「繋驢桔(けろけつ)」っていう有名な例え話があるのをご存知ですよね。杭にロープで繋がれた驢馬がそのクビキから逃れようと杭の周りを歩いて巡回しているうちにどんどんロープの締め付けがきつくなって身動きが取れなくなった状態を指している、あの話です。

そもそも、悪循環に陥っている相手を、理屈で説き伏せて悪循環から脱却させようとすると、説得する人までが悪循環の持続に巻き込まれるというか、悪循環に加担しまう恐れがあるのです。ミイラ取りがミイラになるってやつですね。悪循環の真っ只中にいて悪戦苦闘している人も、悪循環から抜け出そうとその人なりに一生懸命に“全力を尽くして”いるわけですから、正攻法で立ち向かうのは逆効果なんですね。症状で悩んでる人に対して、もう悩むのをやめましょうよ、早く元気になろうよ、なんて説得することは客観的に見ると、そのバカバカしさがよく分るのでお笑い草ですけど、必死になってる当人も、よかれと思って一緒に助けてあげようと躍起になっている傍らの援助者も共に大マジメで悲喜劇を演じてるんですね。冷静に観察すれば、ものを観る眼が少々眩んでいる二人が仲良く“煩悩ダンス”を踊っているだけなんですね、実は。

そう言えば、先ごろ退陣したどこかの国の首相なんか、発言や政策がブレにブレまくって、国民はそれに振り回されて大混乱でしたけれども、本人からすれば、そのときどきの思いつきを喋ってるだけで、全然ブレてなんかないんですね。そのブレまくっている点だけは終始一貫!?していたんです。だから、あの元首相に対して、ブレるのはけしからんという真っ向勝負の注文は無意味だったわけです。

で、もし本当にあの人に行動変容を起こそうとするのなら、注文としては、逆説的に「今のままブレ続けて下さい、ブレることをやめたら次は応援しませんよ」とお願いすれば、理屈だけから言えば、あの元首相は二度とブレなくなっていたのかも知れません。(そんなワケないか?・・・笑い)

しかし、もしブレなくなってしまったら、それ以前のブレまくっていた彼の基本スタイルからは文字通り大きくブレてしまうわけですから、やはりブレることをやめていないことになっちゃうのです、アレレ・・・一体どっちなんでしょうか?

いかがですか、みなさん。逆説っていうのはとっても愉快な現象だと思いませんか?猫の目みたいに、連日のようにコロコロ発言の変るところはブレてなくてもブレてるって言われるし、ブレ続けよという必殺の逆説的指示に素直に従って、めでたくブレなくなったとしても、結局は大きくブレたと言われてしまうのです。この辺りが言葉の怪しさというか、ええ加減なところなんです。

ちょっと話が横道に逸れそうになりましたが、我が森田正馬の聡明なところは、その辺の言葉のインチキさっていうところをちゃんと見抜いていて、彼は注意を喚起しています。
「夢の内の有無は有無ともに無なり、迷いの内の是非は是非ともに非なり」これは、けだし名言ですね。道理に暗い人が迷い道に漂っているうちは、その人が考えた挙句に、たとえAであると判断しても、逆にノットAだという結論でも、いずれも間違いなんだと一刀両断に森田は切り捨てています。とても手厳しいけど、確かに鋭い指摘ですね。

ついでに先ほどの元首相の話に戻りますけど、もし選挙のマニフェストに、「政策は終始一貫ブレ続けます」なんてことを掲げたら、確かに“マニフェスト通り”にはなるかも知れませんけれども、マニフェスト通りに“実行”は果たしたものの政治そのものはハチャメチャな結果になるという、森田のいう「思想の矛盾」の模範演技みたいになっちゃいますね。

いや、さすが一国の内閣総理大臣、我々の勉強のために実に色々なことをやってくれるものですが、ここでも、形外会の中の箴言が想起されるのです。少々長くなりますが、対人的な倫理のとても深く本質的なところを突いた名文句ですので、御存知の方々も多いとは思いますが、森田正馬全集第五巻から引用しておきます。「およそ自分が善人として、周囲の人から認められるためには、人が自分に対して、気兼ねし遠慮しようが、うるさく面倒がろうが、人の迷惑はどうでもよいということになる。これに反して、人を気軽く便利に、幸せにするためには、自分が少々悪く思われ、間抜けと見下げられても、そんなことはどうでもよいというふうに、大胆になれば、はじめて人からも愛され、善人ともなるのである。つまり自分で善人になろうとする理想主義は、私のいわゆる思想の矛盾で、反対の悪人になり、自分が悪人になれば、かえって善人になるのである」・・・ここにも逆説の法則が息づいているのですが、おそらく元首相自身はこんなこと、微塵も考えてないはずで、これと全く逆のあり方を一国のリーダーとして見事に示してくれました。反面教師としては理想の師匠ですな。この一件だけから考えても、悩んだり迷ったりすることは本当は実に尊いことなんだということがよく分ります。

だから、みなさん、何も悩まないでいて元首相のような情けない人物に成り果てるか、それとも悩んで悩んで悩み尽くした末に、道理の判る聡明な人間に成長を遂げるか、どっちを選ぶか、さあ真剣に悩んでみましょう?(・・・沈黙)

結局のところ、悪循環から抜け出すためには、マジメな正攻法では効果がないので、少々毒っ気の効いた逆説的な手法でもって頑迷固陋な側面に揺さぶりをかける必要があるってことを御理解頂けたでしょうか。換言すれば、道理の分ってない未熟で迷える子羊に対しては、直球勝負、予測のつく説得や愚痴の受け皿だけでは、徒労に終わることが多いので、ちょっとした想定外の軽いショック療法的な指示がときに必要になってくるということなんですね。

そして、再度繰り返しますけど、この逆説の話を聴いたからといって、これを下手に濫用すると初心者や後輩のイジメや茶化しみたいになりかねませんから、あくまでも基本は「あなたも大変だったね」「随分苦しんで来られたんでしょうけど、何が支えになってきたんですか?」のような支持的で共感的な姿勢をくれぐれも、くれぐれも(反復します)お忘れなきように強く念押しをしておきますね。基本的に受容されている、というしっかりした信頼関係があってこそ、逆説っていう少々ヒネリの効いた技が効果を発揮するってこと、覚えておいて下さいね。

そこを念押ししておいた上で、少し毒っ気を含んだ逆説的アプローチについて説明を続けます。例えば、緊張している人に、緊張の度合いを今より1割ほど強めてみて下さいっていうような逆説的指示は、悩める人にとっては、しばしば想定外の指示や課題になっています。だからこそ、それまで彼らの症状を持続させ固着化させてきた彼独自のスタイルに一寸だけ風穴を開けることになって変化を生じさせるんですね。

ところで、例えば心身の不調を気に病む達人、ヒポコンドリー傾向の強い1人の患者さんが「この症状は一体いつになったら治るんですかア?」と問い続けているとしましょう。その問いに対しては、どう答えるのが逆説的な関わりになるでしょうか?「3年3ヶ月と3週間です」なんてクリアカットに応えられたとしたら、一寸怖いですけど、もしそう応えたとしてもその患者はおそらく納得しないでしょうね。「3年3ヶ月と3週間後に、もし治ってなかったらどうしたらいいのでしょうか」とか、「また再発したらどうすればいいんですか?」などと、まだ全然起きてもいないようなことあれこれと悲劇のシナリオを上手に作り上げて、その中でアガき始めるのです。頑固な神経質というか、悩み上手になってしまった人というのは、かくも“業が深い”んですね。

上記の「いつになったら治るんでしょうかア?」という問いに対しては、「いつになったら治るんだろうかと心配で心配でしょうがないんですね」とか「いつまでその症状に苦しまなくてはならないんだと気に病んでらっしゃるんですね」というように体よくお茶を濁しつつ、直接答えないのが正解なのかも知れません。確かに、その人が欲しがっている解答は返してないわけですから、これも一種の“不問に付す”と言えるのかどうかは知りませんが、一般的なカウンセリングの手法としては実はこれらは典型的な模範解答なのです。

でも、逆説的アプローチからすると、そんな“甘い”模範解答のままでは留まらないのです。「この症状は一体いつになったら治るんですかア?」という“安直なる”問いに対する返答例として基本的な形の逆説で返すとすれば、「治そうとするのを止めなさい、治そうとしている間は治りません。治そうとするのを止めてこそ治るのです」ということになるのですが、これでは治そうとして治ってない悪循環のワナにハマっている人にとっては、おそらくチンプンカンでしょうね。そこで、もう少々味付けを加えて「もしかしたら、その治そうという試みそのものが間違いなんじゃないでしょうか。実際、これまでそうやって治そうと頑張ってきたのに、全然よくなんなかったんですよね。いつの日にか症状が消えた状態を満喫できる・・・そんな治り方はあり得ないのだと御放念下さい。あなたの症状は、あなたの態度、生活次第で間違いなく治るには治るのですが、あなたの想定しているような治り方ではなく、あなたの予想もしないような形での上質の治り方が待っているのです」なんていうように、同じ逆説的な返答でも少々工夫が必要になってくるのです。

「あなたの日常的な意識が、治る、治らんというところから脱却して、幅広く生活上の関心事をたくさん見出せる、そして色々な方面のことに遍く注意が行き亘ってしまうことによって、色々な苦しみや症状は前と同じように残ってはいるんだけれども、殆どすっかり忘れて時間を過ごしている、あるいは症状のことを考えてるヒマ(?)がない程に、あれこれと外部や社会の現象に興味が向けられている、そんな“治り方”こそが良い治り方じゃないでしょうか。そのときっていうのは、治る、治らんとかとは全く異次元空間に立っていて、もう別の新しい真人間を生きている心地がしてるかも知れないですよ。よろしいですか?治ってないけども治ってるんです、わかりますか?・・・わかんないでしょうねえ・・・(笑)」などなど、の返答が想定されるのです。この件を読んでいても、真剣に悩んでる人をからかってるみたいで、そんなペテン師みたいなことをする治療者は誠実さに欠けるんじゃないか?けしからん!って怒り出す人がいます。でも、こういうところを怒らずに笑えるかどうか、ってところがその人の、ある意味、人間としての奥行きというか、人としての“こなれ具合”の指標だいうことも言えるんですね、実は。神経質な人は融通の効かない糞マジメさによって苦しんでるところが多々ありますから、不真面目になれとは言いませんが、糞マジメでも不マジメでもない“非マジメ”な人間になるように“逆修行?”した方がいいんですね。でも、糞マジメな人に非マジメに生きよ、なんてマジメな顔して言った方がいいですかね、やはり笑いながら非マジメに進言して差し上げる方がいいでしょうかね?迷ってしまいますね、マジで・・・(笑い)

ちなみに、森田正馬自身も結構やんちゃっぽいところがあって、患者さんが上記のような指示を受けて大真面目に「悩んでるヒマがないくらいに自分を忙しくしていたい」って申し出た人に対して、「それなら、ハツカネズミの籠の中にある、グルグル回る器具でも用意すればよろしい」なんて内容の返答をしているやり取りが形外会の記録の中に実際に残されています。だけども、大マジメに懊悩してる人からすると、こんな森田の半分冗談に対しても、現代のエアロバイクのようなものを本当に購入して来て!、症状を忘れよう、忘れようと懸命に毎日2時間、3時間も汗まみれになってるかも知れない(大笑い)ので、ホントにピントがずれてる人というのは、どこまで行ってもズレ続けているので、もうマジメに付き合ってられないんですね。

またそう言うと、どうせボクはマジメに付き合ってもらえない人間なんだ、なんてヒネくれてしまう(爆笑)んですから、もう無限地獄?っていうか、それに対して誠実でマジメな釈明なんてことは、からっきし必要なしと言いましょうか、無駄なんですね。だから、早々と、適度に茶化してしまって、時間と労力の浪費にしかならない問答はシャットダウンする、というのが正解なんですね。

おそらく、森田療法の「不問」という対応も、この辺の神経質の執拗さ、“業の深さ”、ズレ具合、愚かさ加減を汲んだ上でのことだったんだと私は勝手に推測しています。つまり、馬の耳に念仏というか、道理の分らん人に道理を説いても道理もならん(「どうにもならん」っていうギャグらしいが、殆ど誰も反応してくれず、トホホ・・・)っとですてこね。

ともあれ、何であれ眉間にシワをよせて深刻に悩んでる人が立派だなんてことは全然ないんですよ。愚かなことやってる自他を静かに笑い飛ばせるスタンスでいる人の方が本当は賢いんだってこと、そこのチガイが判る男に、女に、ハーフになって頂きたいですね。

しかし、悩みの最中にある人にすると、“目が点”なんでしょうね、きっと。でも、これは後になって気付くことなのでしょう。私自身の神経質が昂じたために、少々病的に手の込んだ逆説の説明になってしまいましたが、お判り頂けたでしょうか。もう、たくさん?

いずれにしても、逆説には意表をつくような効果があるので、相撲の決まり手でいうと肩透かしとかはたき込みのようなところがあるのです。神経質で悩んでいる多くの人っていうのは、とかく濃~いガップリ4つの厄介な対人状況に悶えるか、はたまた完全な一人相撲を演じて勝手に大騒ぎなんて状況になりがちです。だから、適当なところで水を入れて取り直しにするか、あるいはいったん降参しちゃって土俵から降りて、フンドシを締めなおして出直すくらいでちょうどいいんです。

ここで、上記の逆説的アプローチの治療的なメカニズムを私流に要約しておきますと、一つめは、苦悩の悪循環に加担せず、さらには悪循環を遮断する役割を果たすということ、そして二つめには、神経質の頑固な私的流儀に執着することの愚かさに気付くきっかけになること、そして3つめには、意表を突くことで、こだわりの対象から注意を他へと散逸させてしまう意義、そして、これが実は最も大切なことなんじゃないかと私は考えるのですが、笑い、ユーモアの感覚を獲得する糸口を提供するってことです。

逆説はおもしろいので、私はいつもギャグ説なんて言ってるんです(・・・一部で失笑)。
とにかく、神経質の陶冶から遥か遠くに棲息する人たちの特徴は、自分のことを笑えない、周囲や他者に微笑みかけることができない、ということではないでしょうか。だから、笑うことの大切さは、決して笑って済ませるもんじゃないんですよ(・・・シーン)皆さん、ここは、笑わないといけないポイントですよ(局所笑い)。今日は、暑い日なのに寒いギャグで沈黙させられたり、強制的に笑わせられたり、こんな疲れる講義には逆に抗議しないとダメだぞ、この指示だけには自発的に従がえ!なんて言われたらどうしますか?(苦笑)

それでは、次にリフレーミング(枠組みの変換)について説明したいと思います。

最初にも述べたように、リフレーミングとは、ある言葉や出来事に対して、まったく違う意味づけを与えることで、認識の転換や発展をもたらすような手順、技法のことをいいます。

死ぬのが怖いのは、生きたい欲望があるからこそだ、とか、緊張感があるのは、人前でも、ちゃんと仕事を成し遂げたい、人から評価されたいという向上心の裏返しだ、というものの見方、これは同じ現象に対してまったく別の角度から光を照射して、違った意味を浮び上がらせることで、全然異なる事象として認識できるようになる、つまり悩みごとが一転、勇気づけ、元気のモトに変身する、というきっかけを提供するのです。

でも、この悩みごとが勇気づけ、元気のモトに変身するというのは、治療そのものとも言えますね。しかも、悩みごとの内容そのものは実は消えていない、つまり問題の状況はあるがままに、その悩みが反対の意味を帯びることで、悩みが解決してしまう、これっていうのは、森田療法のあるがままの機転そのものではないか、とも考えられるんです。

その昔、昭和の大横綱、大鵬がまだ下積みで苦労している頃、先輩力士たちから、数ある弟子の中でも一人だけ厳しい稽古を仕込まれたそうです。当初は何故自分だけをこんなに集中的にイジメるんだ?と悩んでいたそうなんですが、ある時に、本当に可愛い弟子をこそ厳しく稽古で鍛え上げるんだと知ったとき、大きな転機が生れたといいます。このように、イジメを単なる嫌がらせや排除的な行為と受け取らずに、これは熱意や愛情ゆえの厳しさなんだと判ることで、先輩力士の峻烈な怒声や鞭が、それまでと現象自体は同じままでありながら、若き大鵬にとっては、180度まったく違ったものに変貌を遂げたわけです。

従来から、森田療法の中では、リフレーミングの手法がそれとは語られることなく多用されてきました。対人恐怖の人が、実はとても神経が細やかで、周囲や他人に配慮の効いた対応が出来る、それもこれもやはり神経が細やかであってのことですね。対人恐怖の症状に悩んでいるというのは、その細やかさの矛先が自分自身に向き過ぎているのであって、その内向きの意識や注意のベクトルを外側の周辺世界へと向け変えさえすればいい。そんな発想というのは、森田療法以外の治療法にはなかなか見出し難いところだったんですね。

例えば、戸締りの確認恐怖の人なんかが、持ち前の用心深さを存分に社会的に意義ある形で発揮するように警備会社にの職員になったりすると、それはそれは立派な仕事ぶりで絶対に事故なんか起こさない、これこそが「人の性を尽くす」ってことじゃないかと思うんですけど、どうでしょうか。

このようなリフレーミングの機序が生じて、実際にそれまでの悩みごとや弱点が一挙に雲散霧消、それどころか、逆に最大のセールスポイントやかけがえのない生きがいに大変身!なんてこともあるのです。

例えば、もう亡くなりましたけど、確かスカットマン・ジョーとかいう名でしたか、吃音(どもり)で随分と悩んだ歌手がいたんですが、その独特の喋り方を逆手にとって、二十年ほど昔に、極めて個性的な歌を世界的に大ヒットさせました。また、私が精神科を専攻するきっかけを与えてくれた大学のときの恩師であるT先生は、若い頃やはり吃音で苦しんだそうですが、先生はその悩みがきっかけで、工学部から一転、心理学を専攻し直して、その後、高名な心理学の教授として、多大な業績を残されたのです。

皆さんの身近なところで発見会の会員の中にも、神経質で悩んだことが契機となって、その体験を本格的に他者や社会に還元しようと思いなして、長年の立派な社会人としてのキャリアに区切りをつけ、精神科医や精神保健福祉士に転進したという人たちが何人もいらっしゃいます。私と日頃から仕事を共にしている井関さんも、その一人です。

彼は現在、うつ病の患者さんの復職支援の最前線で大活躍されていますが、持ち前の神経質由来の熱心さや凝り症の側面が、現在の仕事の中で存分に発揮されているように思います。四半世紀に及ぶ池田町での公務員経験や、大学で専攻した化学を活かして本格的なワインの醸造から販促にまでにも携わった諸々の体験の蓄積、そして趣味が昂じたパソコンの半ばビョー的なオタクっぷり、これらに発見会の帯広地区での発見会活動で培った体験や見識が、文字通り血となり肉となって実り豊かに結実しています。その“血肉”が、うつ病で休職中のサラリーマンや公務員の人達を復職させる現在の任務の中で最大限に活かされているのです。

井関さんの活躍ぶりを見ていて私が感じるのは、人がその場、その時の環境で出くわす個々の巡りあわせは、一見無益なように見えたり、先々の遠大な目標とは全然無関係なように思えても、いつしかそれらの間に不思議な縁や結びつきが生じたり、関連性を生ずるべく精妙なる変化が双方に自然に起こり始めるんじゃないか、そんなことなのです。

そして、常日頃から眼の前に与えられている役割や課題に素直に意を尽くしてゆくことが“習い性”になっている人というのは、将来的に必ずやミッションと呼べるような本来の生きがいの発見に向けて、何か人智を超えたダイナミックな力で必然的に導かれてゆくのではないか。そんなことを考えさせられてしまうのです。

こうなると、俗に塗れた現実だけの事実の羅列よりも、我々の経験則からしてどうしても信じざるを得ない、ときに実に摩訶不思議な事実をも生起させる“人間性の真実”が存在するのではないかと密かに“感じる”のです。そういう“感じ”を高めておくことも、われわれの生の欲望を一層賦活するのではないかと思うのですが、そんな真実に出会うためには、実は事実に則った地道な生き方こそが重要になるのであって、ここにも逆説的な事実が介在しているんですね、やはり逆説恐るべしです。

「事上の禅」とか「努力即幸福」と言われるように、何であれ建設的な行動にスッとアクセスして我を忘れることに慣れるところまで行った人は、それ自体を愉しんでしまうので、何かを成し遂げてしまうまで持続的、半永久的にそういうスタイルを淡々と崩さずに歩み続けるだけのことであって、その結果が、いつか何某かのことを自ずとやり遂げさせてしまうというのが本当のところなのかも知れません。いつも何事かの三昧の境地になれるような人にとってみれば、特に立派な業績を上げるかどうかなんてことは、所詮大した問題ではないはずなのですから。「これを楽しむものに如かず」と言ったのは確か、孔子でしたかね。

今、この場で与えられているタスク(課題)に着手できるかどうかは、将来的に、その人が本当に願っているミッション(この世における任務)に従事できる人であるかどうか、っていうことをその場、その時に問われているんじゃないでしょうか。そんな気がします。

そういう意味で、我々の平凡な日々の一瞬一瞬の時の流れの連続性の中にこそ、将来の大きな夢や目標に到達できるか否かの無数の分水嶺が存在しているんだ、と考えようではありませんか。そうすれば、限られた時間の中の個々の瞬間をぞんざいに扱うという選択肢は必然的になくなると思います。改めて、「日に新たに、また日々に新たなり」をかみしめたいものです。

半分冗談で半分戯言みたいな、実に非マジメな内容の与太話でしたが、時間になったようですので本日の話はこれで終わりにしたいと思います。
御清聴ありがとうございました。
dr_yamada

山田秀世先生のプロフィール
やまだひでよ:和歌山県生まれの関西人。金沢大学医学部を卒業後、都立病院での勤務を経て、札幌市で開業。「千の風になって」が愛唱歌で、1割の人に感動を与え、1割には無視され、3割の人に笑ってもらい、5割の人から不快がられている。現在、狂歌を強化中。最新作がこれですが、結構森田の本質をついてる一首だと思いませんか?
 泣き止まぬ 少女(症状) 一時(一児)は
 そこに置け
 誰か拾わば そのママになる

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