◇森田源流シリーズ  関東大震災時の日記 (大正十二年九月一日~二十四日 )



森田先生の原著や先生に直接師事されたかたがたの文章を紹介するコーナーです。
今月は森田先生の関東大震災時の日記を、三島森田病院の許可を得て掲載します。

森田 正馬
[解説]森田先生も被災者だった――今から八十八年前の大正十二年(一九二三年)九月一日十一時五十八分、相模湾沖を震源地とするマグニチュード七・九の巨大地震が、千葉県、茨城県から静岡県東部までの広地域を襲った。関東大震災の発生である。死者・行方不明者は一〇万五、三八五人、約一九〇万人が被災し、約二一万世帯の家屋が全壊、もしくは半壊した。東京では、大蔵省、文部省、内務省、外務省、警視庁などの官公庁、帝国劇場、三越本店など多くの文化・商業施設が焼失、横浜でも多くの官公庁やグランドホテルなどが倒壊、もしくは焼失と、関東地方は壊滅的な被害を受けた。

 このとき森田先生は四十九歳。午前中は根岸病院(下根岸五丁目)に顧問(実質的には院長)として勤務し、午後は府立巣鴨病院での研究生活を送る。合い間に週一回東京慈恵会医院医学専門学校の教授として講義を担当し、同じく週一回女子体操学校の講師も勤め、日曜日は自宅での診療と、多忙かつ精神科医としての円熟期にいた。前年(大正十一年)には『神経質の本態及療法』を執筆、この四月に医学博士学位号請求論文として提出したばかりでもあった。執筆意欲も旺盛で、当時の恋愛至上主義に触発され、『恋愛の心理』を執筆途中だった。

 森田式神経質療法が成立したといわれる四年前の大正八年、終の棲家となった本郷区蓬莱町六五番地の自宅(現・文京区向丘)に患者を受け入れ、熱心に指導、震災の時も三名が指導を受けていた。
 健康面では、三年前の大正九年、四十六歳のとき、郷里土佐で、大病(反復性大腸炎)にかかり、七十日間の闘病生活を送り、死線を越えるが、その後も腸が弱く、しばし日記に「病院を休む」の記述がある。
 震災では家屋の壁土が落ちる程度の被害ですみ、火の手も及ばなかったが、さっそく電気、ガス、水道のライフラインがストップ、道路、鉄道など交通機関も遮断され、新聞社が焼失し情報も入らなくなる。
 火事のなかを逃げまどう人々が、避難先として陸軍被服廠跡地(墨田区横網)に殺到したものの、持ち出した家財道具に火が移り、巨大な火災旋風が発生、三万八千人が犠牲となる惨劇が起きた。森田家に親しい娘さんも巻き込まれ、消息はついにわからなかったという。
 震災後の混乱のなか、不満を持つ朝鮮人たちが暴徒化した、井戸に毒を入れた、放火してまわった、社会主義者たちが暴動を起こすなどの風評が瞬く間に広がり、人々はパニックに陥り自警団をつくる。その結果、暴行、殺害された人々が三百人以上にものぼった(人数には諸説あり)。一方、社会主義思想家の大杉栄、伊藤野枝、大杉栄の六歳になる甥の橘宗一らが殺害された甘粕事件、労働運動の指導者だった平澤計七ら十三人が殺害された亀戸事件などが起きた。
 森田先生も自警団に加わるが後に自戒、このときの体験・心理を冷静に分析し、同年十一月に「大震災に於ける流言蜚語の心理」(全集第七巻に所載)としてまとめた。現在読んでも十分示唆に富む内容である。
 日記からは他にも、先生自ら電燈の代わりに行燈をつくったり、肥汲みや壁の修繕をしたりと、器用さを生かし、臨機応変に、テキパキと働くさまがうかがえる。また、カナリヤの雛や飼い犬の死についての記述は、震災後の大混乱のなかだけに、先生の繊細で温かく優しい人間性が際立つエピソードとなっている。
 今回紹介する森田先生の震災時の日記は、貴重な記録であるばかりでなく、東日本大震災に見舞われた私たちに、日々の暮らしの積み重ねをとおして復興に向けて歩きはじめる人々の姿を提示しているといえよう。
(編集部)

大震災
九月一日(土)朝、雨風、大地震
 七時起床、病院を休む。午前十一時半より大地震あり。正一も皆家にありて幸なりき。家は所々の壁土落ちたるのみ、瓦に損害なし。岡崎の家は離れの方、大方瓦落ちたり。池の水五寸余、揺り溢れ出たり。畑の処に避難所を造る。神田、麹町、日本橋、上野方面悉く火事あり。夜は為に月夜よりも明るし。正午頃は西南の風ありて灰吹き来たりたるも、後、幸風なぎたり。電話、電信、電燈、皆用をなさず。水道止まりガス来らず。市中は避難者道路に出で、鉄道の上にテント張りて寝たるものなど多し。火事は夜に至りて本郷に迄入りたりという。
 地震は初め強震、一時間許続きたるも、後小ゆりとなり、翌朝迄も時々来れり。一同は皆戸外にありて、睡らず。余等三人は蚊帳の内に睡り、十一時半就床。


九月二日(日)晴。
 五時半起床。歩いて病院に行く。院長、中尾、川鍋、松井、大原など皆焼出されたりといふ。病院は玄関倒壊し、配膳、二階倒れ七部(分)。佐藤君の家半壊せり。其他病室殆んど瓦落ち家の土台くるひたり。患者には負傷なし。午後二時半、上野を廻りて帰る。避難の人を以って充されたり。
 本郷区も、社会主義者、不逞鮮人の放火ありと人々棘々たり。
 夕方、谷代君の負傷して避難に行くと会ひ、導き帰り、衣と宿とを与ふ。同行、小児共々七人なり。
 今日も時々、強震微震あり。夜は朝鮮人三人、養源寺に入りたり、井戸に毒を入れたなど、青年の群れは皆棒を持ちて之を探せし。余等も之に加わりて勢を加う。十一時就床。火事は少しく減じたるも猶止まず。


九月三日(月)晴。
 七時起床。病院に行く。脚痛みて歩むに苦しむ。病院は手の付けやうもなく何もなさず。四時半、空腹にて帰る。谷代君独り残りて他は皆病院の方に行く。
 市中は、鮮人の暴行ありとの事にて不安なり。夜は擂鉢六ヶにて一同白米を作る。蝋燭欠乏、石油は鮮人放火の恐のため発売禁止にて、夜燈火に苦しむ。十一時前就床。


九月四日(火)晴。八十二度
 七時半起床。病院を休む。谷代君、病院より寝台車の迎ありて去る。
 夜ははき寄せの白米の土を撰り出す。十二時就床。
 夕方、油の行燈を作り上げたる前に電燈点火す。


九月五日(水)晴風。八十二度
 七時起床。病院を休む。身体痛む。働く能はず。鍼灸学校を見に行く。当分休業なり。銀行も然り。途に地図掲示されたり。
 三日正午までの調査にて浅草、南千住、三河島、深川、本郷、神田、日本橋、京橋、麹町、駿河台、全焼。本郷区一部其他の消失あり。不逞鮮五百人捕ふ、多く武器、爆弾を所持し女は毒を携へたりといふ。横浜、鎌倉、小田原全域、静岡以西は著変なしとの事なり。体重十一貫五十匁。十時過、就床。午前、三、四度程強震あり。


九月六日(木)晴。朝良便
 七時起床。昨夜、初めて日日新聞号外出で、今朝、半折新聞出ず。車にて病院に行く。病院より臼を運び来て、米を搗く。病院には弁当を持ち行く。廣江君の宅より餅を持ちて見舞あり。十一時就床。


九月七日(金)晴。夕立あり。
 七時過起床。病院を休む。病院罹災者に反物など買物に行く。瑞枝の宿を探して梶ヶ谷町の二階を一つ一つ尋ね行きたるも不明なり。所沢の川上よりなすとねぎを持って見舞あり。今日は三升宛二臼をつく。夕方、廣江君父君、男を連れ米五升梅干、カンピョウ、松魚節を持来たり呉る。今朝三時発、大宮より徒歩にて来れりとの事。十四、五時間を要したり。臼は隣家より借人多く夜も盛んに搗く。十一時就床。


九月八日(土)晴。
 七時起床。今朝五人連れにて米買に行く(春日町公設市場)。一人に二枡五合宛なり。百瀬君来り、避難して一同無事との事なり。朝、泥状便あり。八百松より使あり。モヒ、ヒオスチン注射液を与ふ。午後車にて病院に行き、院長、谷代、中尾、川鍋、松井、川鍋、陸田、大原に災罹見舞の反物など贈る。上野廻り焼跡を見、廣瀬君を見舞ひ帰る。十一時就床。
カナリヤ一羽眼開く(十二日目)。


九月九日(日)晴。
 七時起床。下痢便あり。常食。午前廣江君と共に、近森瑞枝を尋ねて本所横網町の真宗教会の焼跡に行く。厩橋の近辺、河水屍体多し。被服廠の広場には多くの屍体を火葬しつつあり。臭気甚し。真宗教会は倒れて焼けたるが如く、其内より屍体五を発見し、なほ埋もれたるものあるが如しといふ。両国橋を渡り須田を廻り帰る。至る処全部焼土なり。五時間を要して二時家に帰る。
 夜は患者に精神統一の話をなす。一時就床。


九月十日(月)雨
 七時起床。軟便あり。初めて手紙三通来たる(見舞)。南海君来たり。君に手紙を頼む。十時就床。


九月十一日(火)晴
 八時起床。朝良便あり。車にて病院に行く。十二時前就床。カナリヤ子死す。


九月十二日(水)晴
七時起床。泥状便あり。病院を休む。水野来る。瑞枝さんの消息不明なり。国に電報を発する事とす。葡萄の下に火事用心の穴掘り始む。便所の肥取りなす。水道の水は当分は出ず。夜十一時より出で、風呂に水を汲入る。煙突を直す。十二時就床。午前吉田往診。


九月十三日(木)晴、夜雨
 八時起床。粥状便あり。病院を休む。患者一人。初めて風呂を立つ。水道近辺には出づるやうになりたるも、吾家のみ出でず。夜十一時ごろより僅に風呂に汲み込む。湯の中に多くのぼうふりあるを発見す。夕、寺川喜代治君及び隆次君来る。夕食を饗す。十一時就床。
 喜代治君は高知県より救助品を船に積みて来れるものなり。


九月十四日(金)雨
 七時半起床。正一と共に電車にて上野に行き、焼跡を見物し、病院に行く。梨を買ひて院長及び病院に贈る。重くして汗流す。帰途、綿を買ひ帰る。三時頃迄眠る能わず。


九月十五日(土)曇、雨。
 七時半起床。左官来たり、岡崎の屋根を直す。朝、無形軟便あり。所々に籠をつるカギを作る。小島母君来る。病院を休む。十時就床。久し振りに入浴す。水道僅かに出づ、昼間は多くは出でず。


九月十六日(日)晴。
 六時半起床。植木屋来る、壁の破損を直す。窪田君千葉より見舞に来る。軟便あり。
 物干を直すなど、終日働く。十時就床。


九月十七日(月)晴。
 六時半起床。下痢あり。物干竿を買ひに行く。ピンポンの盤を取りはづす。患者一人。左官来り岡島の屋根を直す。病院出勤。ひまひまに壁の破れを修繕す。十一時半就床。


九月十八日(火)晴、冷
 七時半起床。藤村氏、中村君見舞に来る。上野を廻り電車にて帰る。屋根屋来り、岡崎の家を見積る。十四坪半(平常は坪、三円八十銭、今、四円より四円五十銭)、瓦二百五十枚許(平常は一枚九銭より十一銭のもの今は十八銭なり)。朝、粥状便あり、十一時就床。


九月十九日(水)晴、冷。七十八度(午後)
 佐藤君帰る。六時起床。粥状便あり。柴田君来り、家計の困難を訴ふ。中山君大阪より上京。病院を休む。縁側に蝶つがひにて下駄置場を作る。十一時就床。


九月二十日(木)晴、冷、夜雨
 七時半起床。病院出勤。午後上野より須田町に廻り電車にて帰る。武城君上京、泊る。入浴、十時就床。


九月二十一日(金)晴、夜雨
 六時起床。水野博●君来る。患者一人。武城君と長男と甥と共に本所に行く。ポチ、自動車にひき殺さる。畑に埋む。銀行に預金す。勅令により一人一日百円以上を引く能ず(預金引き出し制限)。公債利子などは交換所未開のため受取証と引きかへたり(現金化できなかった)。野市〈高知県〉より電報来る「アンピイカン スグ ヘン タハラ」。十七日十時発のもの漸く着きたり。
 入浴。食前十一貫八百五十。武城君の子武尚君など夜に入りて帰る。武城君泊る。十時就床。


九月二十二日(土)雨、冷。朝六十四度。
 六時半起床。病院に行く。須田町を廻りて帰る。上野にて本所被服廠焼死の写真を買ふ。十時過就床。夜良便アリ。


九月二十三日(日)晴、冷。朝六十四度。
 六時起床。植木の手入をなす。島崎君来り。警察行動の話を聞く。加藤良義氏来る。地震の状況の手紙を母上に書く。明日大阪に出発の中山に頼む。宇佐、忠世君より十八日発の電報届く。十二時就床。


九月二十四日(月)雨、夜暴風雨
 七時起床。終日雨降りつづきて病院を休む。神経学雑誌抄録を読む。夜、森山に行く。十一時就床。
≪補足≫
 「大震災後、国元の母への通信」を基に、捕足します。日記には九月二十三日に「手紙を母上に書く」とあります。全文は森田正馬全集第七巻に所載。


九月一日
・正一郎(日記文中・正一)は、小学校始業式にて、早く家に帰り、私は前日より腸を悪くして、病院を休み、今日は午後病院に出勤せんと心構へ居候処に、午前十一時五十八分、地震起こり、正一郎は、奥の室より、真先に飛出し、私共もつづいて、裸足のまま、庭に出で候。
・「岡崎の家」とは森田先生の貸家。
・地震の初夜、市中の火事は、三方に拡がりて、天を焦がし、座敷は満月の夜よりも明るくなり候。
・大ゆれの後は、火鉢、飯櫃等を縁側に出して、午食を済ませ候。…私共は、蚊帳を吊りて、座敷の内に寝ね候。久亥は平気に寝居り候も、正一郎は、時々外に飛出さんとせる事あり候。


九月二日
・総ての交通機関なくなり、徒歩にて病院に出勤致候(二十七丁)注=約三キロメートル。
・後に思へば、全く馬鹿気たる事なれども、其当時は人心徒に戦々兢々として、訳もなく其気になり候。
・(火事は)三日の朝になりて、漸く鎮まり候。


九月三日
・米の準備不用意のため、早くも地震の翌日より白米なくなり、大いに婆やを怨み候。


九月四日
・之(電燈の灯火)は僅かに山の手の一部にて、一戸に一燈だけつけるやうにとの注意有之候。


九月六日
・東京日々新聞の号外半枚、初めて出で候。新聞社は、時々号外の代わりに、自動車に乗り口にてどなり行き候。


九月九日
・(被服廠の広場は)幾萬坪の広場にて。……ここに三万三千の焼死者を出したりとの事に候。
・「みずえ」さんの生死は終に分からず。気の毒に至極に候。


九月十日
・高島南海君が、軍艦から上陸して、立ち寄り……。


九月十三日
・(喜代治君は)高知県の救護船で上京して、一晩泊まり……。


九月二十日
・山北の常さんが、「みずえ」生死不明のため、上京滞在して、国元の事を承知致候。
(注=「近森瑞枝さん」は武城君の近縁者か。八月三十日の日記に、「瑞枝さん来たり泊る」の記述がある)


※文中「鮮人」など差別用語がでてきますが、当時の貴重な日記なので原文のままとしました。
原文は判読しにくい文字が多数あり、正確でない個所もあることをお断りします。
「八十二度」など度数をあらわす数字がありますが、これは気温(この場合摂氏二十二度)を華氏であらわしたものです。
「ぼうふり」とは「ぼうふら」のこと。また原文はカタカナ表記ですが、読みやすさを考え適宜平仮名にし、句読点は必要と思われるところに取捨しました。

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